プロレス雑誌の表紙集のギャラリーページも見てね。
ツイッター twitter も見てね。
1982年6月20日の東京スポーツです。
記事は6月18日新日本プロレス“第一次サマーファイトシリーズ開幕戦”蔵前国技館大会です。開幕戦でいきなり蔵前国技館、いいカードが揃ってます。アンドレ・ザ・ジャイアント vs ハルク・ホーガン、レッスルマニアの看板カードが惜しげも無く日本の通常シリーズで実現しています。アンダーカードだって第一試合から興味深い試合ばかりです。(とは言っても当時はそんなに話題になったアンダーカードではなく、それぞれの選手が後にいろんな場面で個性を発揮したからそう言えるのですが)
80年代のカードを見るといつも感じるのが「今ならドーム級のカードだな」ということです。こんなカードが当たり前で実現していた80年代にプロレスファンであったことは貴重な体験です。地方にいるとなかなか大会場に足を運ぶことはできませんでしたが、毎週テレビで観戦することができたのですから幸せです。
東スポも迫力ある写真を数多く掲載して渾身のレポートです。アンドレvsホーガン戦にしろタイガーvsウルトラマン戦にしろ、ずーっと見ていても飽きない写真ばかりです。
藤波の飛龍十番勝負第4戦、カネック戦。藤波はまたしても勝ちを拾えず。すでにIWGP構想にカネックが入っていてキズをつける訳にはいかなかったのでしょうか?藤波に勝って欲しかったな。実はこの試合、当初の飛龍十番勝負第4戦の相手はジェシー・ベンチュラだったのが、急遽変更になったんですね。ベンチュラなら引き分けもやむなしと思います。
二ヶ月ぶりの復帰のアントニオ猪木vsスコット・マギーは、あっけない幕切れ。実際のところ、あんまり印象にありません。猪木の試合が印象に無いから、「6.18」という数字も、私のプロレスの記憶には含まれない日付です。あんまり記憶に無い試合ほど、あとで記事を読み返したら面白かったりします。深く記憶にすり込まれている試合は、試合も前後の出来事も全部覚えちゃってるからなのでしょう。でもこの日の試合は「もう一度ビデオで見てみよう」と思う試合です。
どのビデオに入っているのか検索するのは、このホームページの得意技!、と思って地上波テレビ朝日の「ワールドプロレスリング」検索してみたら、無い。放送が無い。野球で飛ばされた?。いやいや「ワールドプロレスリング・クラシックス」では放送されており、ちゃんとリストアップされていました。ごめんなさい、地上波のリストは一週分抜けておりましたので、早速修正いたしました。(日テレG+のプロレスクラシックなども最初から再放送されているので、時々自分のリストと見比べて、こっそりと修正しています)だだのプロレスファンの道楽なのでお許しを。
新日本プロレスの蔵前決戦だけで無く、全日本プロレスも海外ですが「ジャイアント馬場vsブルーザー・ブロディ」のインターナショナル選手権、「テリーvsブッチャー」。6.18ってプロレス的に豪華な日だったんですね。この6月20日付けの東京スポーツもお買い得、プロレスファンなら「即買い」です。
82年は「オールスター戦」の機運も高まっていたのですね。私的には「実現するはずが無い」との思い込みで全く期待していませんでした。新間さんがリングに立って挨拶するのも恒例になっていましたが、アドバルーンをぶち上げても「話半分」で聞くという分別はつくようになっていた頃です。後になっていろんな本や記事を読んだりすると、どうも結構本気で実現に動いていたようですね。それなら実現して欲しかったな、と37年も前のことを残念がる今日この頃です。
本当にオールスター戦が実現していたら、ジャイアント馬場もスタン・ハンセン戦で「まだまだ馬場健在」を見せつけていた頃です。「馬場vs猪木」が実現すれば名勝負になったことと思います。どっちが勝ったんだろうと思いを巡らせたりしますが、「ハイセル問題」を抱えていた猪木が不透明な決着ながら「負け」というのが私の予想。なんだかんだと言っても馬場は猪木に金銭的に手を差し伸べるのではないだろうかと。その代わり試合の勝者は馬場。決着に不服な猪木は再戦を要求して8.26のドラマは続く・・・・あぁ、また悪い妄想癖が。(すみません、私が心の師と仰ぐのはアントニオ猪木氏です)
でも記事を読んでみるとハイセル事業については、ブラジル大統領・日本の総理と同席してのレセプションで派手に始動をアピールしている時期だったんですね。私の記憶ではこの年の欠場が相次いだ頃には、すでに資金繰りに四苦八苦しているという印象ですが、あとからすり込まれた記憶なのかもしれませんが、私の中ではスタート時点ですでに「泥沼」だったような印象です。(すみません、私が心の師と仰ぐのはアントニオ猪木氏です。ただの妄想です)