サムライTVで2003年~2004年頃に放送されていた「浅草キッドの海賊男」は、浅草キッドをホストに様々なゲストを招きトークをする番組でした。2003年05月29日に放送された回のゲストは「宮戸優光」さん。新生UWF解散から、Uインター設立の経緯、Uインターでのプロレス業界への様々な仕掛け、そして崩壊までいろいろ興味深い話が展開されました。番組尺は50分ですので、その一部のトークを掲載してみます。
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■宮戸優光から見た「新生UWF崩壊」
あれは前振りがあったんですよね。まず新生UWFの経理が不透明だったこと。それと当時メガネスーパーがプロレス業界に参入しようとしていたこと。横浜アリーナ大会とかでメガネスーパーがバックアップした大会がありましたからね。
メガネスーパーはUWFという団体を傘下に収めたかったんです。そしてそれに対抗する団体SWSを作って、それを並行してやりながら、時には対抗戦を行って盛り上げていこうと言うのが、田中社長の当時の構想だったんですよね。それが前田さんとか選手みんなが知らないところで進行してたんですよね。
このことが経理の不透明と同時に我々に発覚してきたんです。前田さんとしては経理は不透明で挙げ句の果てには会社自体を売りに出していると。これはおかしいじゃないかと言うことで、前田さんがそこを突っ込んでいったわけですよ。
それでまあ、会社がゴタゴタし出しまして、前田さんがその会社の不透明さをUWFの大会の会場で言っちゃったわけですよね。あれは前田さんも弁護士さんから怒られてましたけどね、「なんで先走ってそういうことを言ってしまうんだ」と。
それで会社側としては「これ幸い」と前田さんを解雇してしまえば、他の選手だけならなんとかまとめることができるんじゃないかという思惑があったんでしょうね。そういう経緯で前田さんは会社に損害を与えたという理由で解雇だと。だから次の大会の出場も停止すると。
その出来事が大阪大会で、後の松本大会というのももう発表してあって、チケットも売り出しちゃってね。それである日、高田さんと会ったんですよね。前田さんもいたのかな?、その時に高田さんが言ったんですよ。
(高田)「あのさ、今度の大会は俺も山ちゃんも出ないから」
えっ?って感じですよね。
(高田)「だってさ、会社がおかしいわけだからさ、前田さんが出場停止って納得できないだろ。だから俺は出ないから」
と、こういう風に言うんですよ。その時にはすでに上3人(前田、高田、山崎)と下(船木、鈴木以下の全員)に結構深い溝ができちゃってたんですよ。普段口もきかないわけですから。ここにその発言ですから「あ、やばいなー」と思ったんです。これを船木さんたちに言ったら、この溝は永遠に埋まらないな、と思って、
(宮戸)「高田さん、気持ちはわかりますけど、そしたら船木さんたちとの溝は・・・・この溝は絶対埋まらなくなと思います」
「溝」ってハッキリ言っちゃいましたけど、それはもうみんなわかってることですから、そう言ったんです。でも高田さんは
(高田)「けどさ、これは納得できないから次は出場しない。そうするから船木や鈴木にも言っておいて」
と、こういう風な話で終わったんですよ。それで僕は伝書鳩みたいに船木さん鈴木さんところに行って「こういうことです」と話をしたら、二人の返事は案の定でしたね。
(船木)「いや、俺たちは出ますよ。だって俺らはレスラーですから、試合するのが仕事ですから。もう発表しちゃって、チケットも買って待ってるファンもいるわけですから、俺らは出ますよ」
そう言われちゃうとそれは正論だと思いますから。内部のゴタゴタとファンは関係ないですからね。それで「弱ったな」と思いながら、また伝書鳩みたいに高田さんの方に伝えたんですよね。それで最終的には松本大会はみんなが出ることでまとまったんですよ。そうすると逆に今までのフロントとは「無し」にしなければならないじゃないですか。だから「新会社」を作ることを前提として進めていかなきゃ行けないと。(それが松本大会だったが)ただ、我々の中には、「上と下」の事も含めていろんな不満も有ったわけじゃないですか。
この時、僕と安生さんというのは、完璧に船木・鈴木派というのではないけれども上と下という括りで言うと、どっちかというと船木・鈴木グループに入っている感じだったんですよね。分類としてはですよ。前田さん・高田さん・山崎さんにすれば、自分たち3人以下を全部「下」と見ていた訳ですから、いやでも「下」という括りになっちゃってたんですよ。
タマちゃん)藤原さんは?
宮戸)藤原さんは一人(別行動)でしたね。
それで1月7日は新しい会社を立ち上げるための最終打ち合わせだったんですよ。それでみんなが決まった時間に全員で揃うはずだったのに行ってみたら、前田さん、高田さん、山崎さんの3人がすでに座ってるんですよ。しかも「すっごい」雰囲気で。もう言葉を発せられない、お通夜をもっと暗くしたような感じ。そんな雰囲気で到着した人から挨拶して入るんだけども、その挨拶も言葉が途中で止まっちゃうぐらいのそんな雰囲気だったんですよ。
「これ、なんかおかしいな」と思ってたところで、この会合が始まったんですよね。その会合の内容は長くなっちゃうのでアレですけども、(結局、前田さんの)「解散」の言葉までいってしまった。そして前田さんが一人一人順番に詰問していったんですよ。最初から(宮戸は)「僕は違います」と言ったわけじゃないですけど、いろいろとやりとりがあって最終的に前田さんから「別れるときは綺麗に別れようぜ、いいよ帰って」って言うのが最後でしたね。ショックでしたけどね。席を立ちつつ「一人だけクビになっちゃったな」って思って。
その出て行く後ろで次に安生さんが「安生、お前はどうなんだ」と質問を受けてたんですよ。その声を背中に聞きながら、俺一人だけになったなと思ってましたよ。でも降りるエレベータでは安生さんと合流したんですけどね(笑い)。
それでその後、安生さんといろいろ話をしていて、そんな気持ちの時でも腹は減るんですよね、不思議なことに。それで狛江のロイヤルホストでメシ食って、帰りに車の中では「安生さん、こうなったら新団体をやるしかないですね」って話をしたんですよ。その段階では二人だけなので「できるわけ無いかな」なんて思いながらも、なぜか「二人じゃない、船木さんたちだっているじゃないか」と漠然と思ってたんですよね。あの席での上3人に対して「その下のグループ」っていうイメージが心情的に残ってましたから。
とりあえず安生さんの家に行っていろんな話をしていたら、「ピン、ポーン」って鳴ったんですよ。「やべ、迎えに来られた」、「考え直せ」って言われるんだなと感じましたよ。それがイヤだから居留守を使おうとしていたら、「船木です、開けてください」って聞こえて。それでドアを開けて、絶対に気持ちは変わらないという覚悟で話を聞こうと思ったら、「宮戸さんたち、もう戻る気は無いんですよね」と言うんですよ。こちらは止めてくれるもんだと思ってたから、「ズルッ」っとズッコケちゃったんです。どこかで止めて欲しい気持ちもあったんですよね、不安だから。
そしたら船木さんが「俺らもクビになったんですよ」と聞いて、そこでビックリですよ。
水道橋博士)それで確執のあった上3人の中から高田さんを担ぎ出すって言うのは?
あれだけ突っ張った以上、分かれてやる以外無かったですからね。僕には、前田さんとあの3人には先に話ができていたように思えましたから、高田さんに相談しても逆に若手でやろうとしていることを妨害されるんじゃないかとも思ってました。だから高田さんに相談したい気持ちはありましたけども、まずは若手でできるところまでやって、それからでも遅くないんじゃないかなと言う考えで新会社設立に向けて、僕と船木さんを中心としてみんなをまとめようとしてたんです。そのあと、船木さんの「ちょっと藤原さんに挨拶行ってきます」という言葉から、またまた分かれていったんですけどね。
旧UWF以降の若手は精神的には「高田さんについて行く」という思いが強かったですよ。当時の若手、新弟子は時間があれば高田さんの強さの話ばっかりしてましたから。練習量がもう半端じゃなかったですね。前田さんももちろん強かったですけどね。
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■そしてトークはUインター時代の話へ・・・
・厳しかった練習
・Uインターとして次々と仕掛けていったこと
・前田さんに仕掛けるのはイヤだった
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■グレイシーへの挑発、安生道場破り
グレイシーはもう無視できないんですよ。Uインターは「最強」というイメージを打ち出していたし、「じゃあ最強と謳うグレイシーに対してどう動くんだ」という目で見られてましたから。それでこれはもう、一歩踏み込むしかないという感じで、これはリングにあげて決着を着けてしまおうということで交渉を始めてね。
それでも向こうは乗ってきませんから、Uインターとしてはファンに対して「我々は黙ってるんじゃないんだよ、交渉してるんだ」ということを表に出すべきだなと言うことになったんです。
だけどあの「道場破り」はね、ああいう形になる予定ではなかったんですよね。本来二週間ぐらいかけて体調を調整してから行くっていう予定だったんですよ。それがね、安生さんは前日までゴルフの打ち上げかなんかで午前4時までフィリピンパブかなんかで鼻の下を伸ばして騒いで、それから行ったんですよ。ハワイ経由かなんかの一番安い便で。
それでも最初に一週間は時差ボケを治しながら、トレーニングして体調を整えてくださいと、言って、到着したら連絡をもらうことになってたんですよ。それでそろそろ着いたのかなと思ってたら連絡を受けて「やられました」と。
「冗談でしょ」って。俺はもう怒鳴りつけましたよ。「ふざけんなよ、俺との約束はいったい何だったんだ」と。一緒に行ってた笹崎さんにも「ふざけたことをやってんじゃねえ、あんたもクビだよ」って。あれは安生さんは本当に行く意味をわかってくれてなかったんですよね。行くって言ってくれたことは素晴らしかったと思うんです。だからといって好きにやっていいという事じゃないですからね。単なるスパーリングをやるとか、練習をやるというのじゃなくて、あれはもう「戦争」だったんですよね。それなのにマスコミもシャットアウトされたああいうところに「ノコノコ」と入っていくというのは、勇気でも何でも無いですよ。それこそ「変な東洋人が来た」ということで、いきなりピストルをぶっ放されたって何も言えないですよ。
安生さんが行くって言ってくれたことは勇気のあることなんだけど、だからあの日の行動というのは全く褒められることじゃなくて、ある種、会社のこととか周りのことを全く考えていない身勝手な行動だったとしか思わないですね。
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■後半のトークは、
・Uインターの崩壊の経緯
・総合で活躍する、田村、桜庭の話
へと続きました。
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荒川を超えたら「ジャイアント馬場バル」という聖地王道があった。今日、1月31日、馬場さんの命日、オープンです。 pic.twitter.com/GD1bESxuJP
— ターザン山本! (@tarzany) January 30, 2020
それぞれの立場で、みんながつらい選択だったと思います。
ワールドプロレスリングの書体で「ジャイアント馬場」の文字は感慨深い。#ジャイアント馬場#アントニオ猪木#夢のオールスター戦
— FavoritesCafe (@CafeFavorites) January 30, 2020
1979.08.31 南九州学院短大体育館からの生中継で、8.26の試合がダイジェストで流されました。https://t.co/glcTDoi6Zk pic.twitter.com/0CMyzzB63q