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プロレス名言集

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名言集

■1968.02.16 アントニオ猪木・ジャイアント馬場

  馬場「お前は俺のパートナーだろ!」
  猪木「今日は違う!」

1968,02.16 後楽園ホール ジャイアント馬場vs吉村道明

 1968年2月16日に開幕したシリーズ。大雪の影響で日航機が羽田に着陸できず遅延したため、外人勢が開幕戦(テレビマッチ)に出場できなくなったため、急遽組まれた異色のカード。

 試合中に吉村がロープを掴んだ場面で、猪木レフリーは馬場にブレイクを命じた。この時、馬場が「お前は俺のパートナーだろ!」と太い声でクレーム。これに対して猪木は「今日は違う!」と真面目に答えた。場内からは「ドッ」と笑いが起こった。「日本人同士の大物対決」ヒストリーにはまったく出てこない一戦。

(流智美著「猪木戦記第1章~若獅子編~」より

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■1970.03.15 アントニオ猪木

「モテすぎて、ファイトがダメになる」

 「プロレス&ボクシング」1970年3月号掲載記事。
 倍賞美津子との仲が週刊誌ネタになっていることに対して「なにしろ週刊誌の人たちは耳が早いし、話があまりにも飛躍しすぎる。確かにつきあっているが結婚などとんでもない、みなさんもひどいよ。俺のことをひとつも弁護してくれないんだから」とつい親しい記者に泣きごとをこぼす猪木である。猪木は、テレビ、ファン、週刊誌の質問攻めにあって、「モテすぎてファイトがダメになる」とこぼす日の連続。
(出典:ミック博士の昭和プロレスマガジンvol.59)

 写真は週刊ファイト1970年11月26日号より - 前年12月2日の大阪でのドリー戦を観戦する倍賞美津子

名言集

■1971.03.23 アントニオ猪木

「チャンピオンになったら、オレとお前の婚約を発表しよう」

 1971年3月23日、アメリカに滞在していたアントニオ猪木は、ロサンゼルス国際空港で倍賞美津子を出迎えた。そして「26日(日本時間27日)の試合に勝ってチャンピオンになったら、オレとお前の婚約を発表しよう。チャンピオンベルトを持って東京へ凱旋して東京で正式に婚約を発表する」とプロポーズ。

 アントニオ猪木はロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムにおいて、ジョン・トロスから見事UNヘビー級選手権を奪取して、倍賞美津子との約束を果たした。

 倍賞美津子は東京スポーツの取材に「オレとお前にとって大事な試合だから見に来い、と言われたので飛んできたの」と答えている。

名言集

■1971.05.19 アントニオ猪木

「負けたら練習をして、また挑戦する」

 第13回ワールドリーグ戦でジャイアント馬場がアブドーラ・ザ・ブッチャーを下して優勝した。一方アントニオ猪木は、ザ・デストロイヤーと引き分けて優勝を逃した。猪木は試合後の控え室で「馬場さんのインターナショナル・タイトルに挑戦します。日本に2人もチャンピオンがいてはおかしい」と語った。それに続くコメント。
 後年の「出る前に負けることを考えるバカがいるかよ!」という思考に至る前の時期、まだまだ若々しいコメント。

名言集

■1971.05.19 ジャイアント馬場

「街の喧嘩じゃないんだ」

 第13回ワールドリーグ戦で優勝したジャイアント馬場へのアントニオ猪木の挑戦表明を受けてのコメント。あとに続く「コミッショナーに認められ、日本プロレス協会がやれと言えば、いつでもやります」という言葉に、「もしやれば勝つ」という確信のようなものが感じられる。
 この時点では馬場の方が優勢、猪木は二番手。

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■1971.05.25 日本プロレス協会

「現段階では時期尚早」

 アントニオ猪木のジャイアント馬場への挑戦表明を受けての日本プロレス協会と日本プロレス興行の見解。ジャイアント馬場とアントニオ猪木を日本プロレスの「両輪」として認めているからこその見解だと言える。
 この時期に子供だったプロレスファンは、この一連の出来事で「時期尚早」という四字熟語を覚えた。

名言集

■1971.12 倍賞美津子

「男ならやってみなさい」

 日本プロレスを除名されたアントニオ猪木が新団体旗揚げについて迷っていた時に、倍賞美津子が猪木に言った言葉とされている。
 そして美津子さんは旗揚げ資金の一部を自らの蓄えから出すと共に、チケットの販売や関係者、マスコミへの挨拶などを精力的に行うことで、内助の功を果たした。旗揚げに際して知名度の高い美津子さんの功績は抜群だった。

名言集

■1972.10.31 ジャンボ鶴田

「全日本プロレスに就職します」

 全日本プロレスの入団会見でのジャンボ鶴田の発言。プロレス界を冷静に見渡して素直な気持ちを表現している。プロとしてプロレス的な立ち位置での発言を期待していたマスコミやファンからは反感を買ってしまった。

 しかし実際に鶴田が語ったのは、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなと思って、尊敬する馬場さんの会社を選びました」と言う言葉。新聞の見出しで、「全日本プロレスに“就職”ジャンボ鶴田」と書かれたため、その見出しがそのままジャンボ鶴田の発言として伝わったもの。

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■1973.04.06 舟橋慶一

「プロレス界の新しい夜明けです」

 NETは1973年3月30日で、日本プロレスの中継を終了し、4月6日の栃木県宇都宮スポーツセンター大会から新日本プロレスの中継を開始した。番組タイトルは変わることなく「ワールドプロレスリング」のまま継続。記念すべき新日本プロレス初の生中継で実況の舟橋慶一アナウンサーの第一声「プロレス界の新しい夜明けです」の名文句だった。

 一方、テレビを失った日プロは、4月20日、群馬県吉井町体育館大会を最後に活動を停止する。テレビが絶大な影響力を持っていた昭和40年代、テレビ局から見放されると、昭和28年(1953年)に力道山が設立した老舗団体もくあっけなく崩壊する過酷な現実があった。(昭和プロレス禁断の闘い - 福留崇広著 より引用)

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■1973.12.10 アントニオ猪木

「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」

 1973年12月10日、東京体育館でジョニーパワーズからNWF世界ヘビー級選手権を奪取したアントニオ猪木は「誰の挑戦でも受けられるチャンピオンになる」と発言した。しばしば口にするその発言が猪木の信念として次第にキャッチフレーズ化してこの言葉となった。

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■1974.03.19 アントニオ猪木

「こんなプロレスを続けていたら、本当なら10年持つ選手生命が1年で終わってしまうかも知れない」

 蔵前国技館でのストロング小林戦後の勝利者インタビューでのコメント。「それがファンに対しての我々の義務」と続く。ジャイアント馬場のプロレスとの違いをアピールしているようにも聞こえる。

 「こんなプロレスを続けていたら」と伝えられているが、この部分は後に意訳として付けられたもの。おそらく古舘アナが実況で回想した時にわかりやすく伝えたフレーズがそのまま「名言」として語り継がれていると思われる。正確には

チャンピオンはね、いつでも闘って負けることもある。これは宿命なんですね。まあ、私も本当ならば10年もつ選手生活も1年で終わってしまうか知れない。しかしそれがね、ファンに対しての我々の義務だと思うんです」

というのが猪木のコメント。

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■1976.06.26 モハメド・アリ

「You go!(お前が行けよ)」

 世紀の決戦、アントニオ猪木vsモハメドアリもお互いに踏み込めないまま最終15ラウンドを迎えた。このラウンドもにらみ合いが続く展開に、レフリーのジン・ラーベルは両者に積極的な闘いを促した。

「Come on, last round. Make it go. Go!Go!」
(最終ラウンドだ、戦え!行け、行け!)

 この言葉対してモハメド・アリは即座に「You go!(お前が行けよ)」と返答。最終ラウンドで左足に負傷を負いながらも、ユーモアを忘れないアリ。ジン・ラーベルも「Okey」と答えている。真剣勝負中にもアメリカンジョークの応酬だ。

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■1977.04.22 長州力

「今時、昭和の世の中で“長州力”は無いだろ」

 サムライTVで2007年3月に放送された「VERSUS 長州力×前田日明」の対談より

前田)長州さんが「参ったよ、俺のリングネーム“長州力”って、なんだよ、このリングネームは」とか言って。「ファンに公募して選ぶって言っても、ホドがあるよ」って。「お前今時、昭和の世の中で“長州力”は無いやろ」って、ずっと言ってましたよね。

長州)あった、あった。

前田)「もう誰が付けたんだよ!」って。

長州)めちゃくちゃ違和感があったね。

前田)「“長州力”って誰が付けたんだ!」ってずっと怒ってましたよたね。

※日付は大阪府立体育会館で新リングネームが発表された日にしています。

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■1978.12.14 アントニオ猪木

「マツダ、明日殺してやるからな!」

 大阪府立体育館での猪木vsバックランド。全盛期だったアントニオ猪木は、若きチャンピオン、ボブ・バックランドを翻弄。猪木ペースで名勝負を演じるも、オオカミ軍団の介入で試合をぶちこわされてしまった。猪木はリングアウト勝ちを収めたものの、WWWFタイトルの奪取はならず。怒りの矛先は、乱入したオオカミ軍団、ヒロ・マツダに。「マツダ、明日殺してやるからな!」と絶叫。マツダとは12月16日の蔵前国技館でプレ日本選手権の決勝戦を闘った。(正しくは明後日、殺してやる?)

 いきすぎたな正義感が振り回わされる世知辛い今の世の中で、物騒な「殺してやる!」という言葉を「名言」として良いか迷いますが、プロレス的な名言としてはOKだと思います。

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■1979.08.26 アントニオ猪木

「ンムフフフ、だって馬場さんに弟子入りじゃダメだし」

 日本武道館“夢のオールスター戦”、メインイベント前の控え室。

猪木「俺、全然ゴルフがうまくならないわ」

馬場「そうなの?。鶴田に弟子入りするとか言ってたじゃないか(笑)」

猪木「ンムフフフ、だって馬場さんに弟子入りじゃダメだし」

 会話の流れから推測すると直前に猪木と鶴田でゴルフ談義が交わされており、馬場がそれを聞いていたものと思われる。

 馬場の付き人だった渕正信が試合前のこの和やかな会話を懐述している。(「プロレス鎮魂曲」(瑞佐富郎著・スタンダーズ・プレス社)より)

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■1979.08.26 アントニオ猪木

「みなさん、聞いてくれ。次にリングに上がるときは闘う時です!」

 日本武道館“夢のオールスター戦”のメインイベントでジャイアント馬場と組んでBI砲を復活させブッチャー&シン組を破った猪木が試合後にリング上で馬場との対戦をアピールした言葉。

■1979.08.26 ジャイアント馬場

「よし、やろう!」

 日本武道館“夢のオールスター戦”のメインイベントでアントニオ猪木場と組んでBI砲を復活させブッチャー&シン組を破ったあと、猪木のリングのアピールに返答した言葉。しっかりとアドリブで対応して見せた馬場だが、その後「クリアすべき問題」が立ちはだかり、両者の対戦は実現せず。両者は同じリングに立つことは二度と無かったため、ジャイアント馬場、アントニオ猪木とも「次にリングに上がる時は・・・」の約束を破ったことにはならない。

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■1980年 ジャイアント馬場

「クリアすべき問題がある」

 ことあるごとにアントニオ猪木はジャイアント馬場に対戦を迫った。そして二人の対戦について馬場がマスコミに語った言葉。会社vs会社、トップレスラーvsトップレスラー、テレビ局vsテレビ局、いろいろなしがらみの中での課題を端的に言い表している。当事者同士もマスコミもそれが何なのか、はっきりとわかっていたが、マスコミは「クリアすべき問題とは何か」をプロレス誌紙でファンへ説明する上でその表現に苦心していた。

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■1980.04.04 山本小鉄

「猪木さんの後を継いでくれるような人を育てたい」

 1980年4月4日川崎市体育館、山本小鉄引退。リング上でインタービューに答えて、

 「17年間やってきましたけども、なんかあっという間に過ぎてしまった試合(の日々)で、ちょっと淋しいです」

 「初めてプロレスに入れてもらったときですね。やっぱり体が小さかったっていうんで、なかなか入れてくれなかったですよ。入りまして、それから猪木さんと新日プロを設立した時が一番思い出に残っています

 「(星野選手とのアメリカ修業時代は)苦しかったですからね。でもやっぱり自分のために、今僕があるっていうことも、その時の苦しかったことがあると思います」

 「これからは若い選手を育ててですね、猪木さんの後を継いでくれるような人を育てたいし、またテレビ朝日の解説でみなさんにわかりやすいように、また楽しくですね、プロレスを観てもらうように勉強していきたいと思います」

 <古舘実況>「ちなみにテレビ朝日(新日本プロレス)放送開始の初めての試合はこのヤマハブラザースの試合でした。この時の実況担当、おなじみの船橋慶一アナウンサーにインタビューしてもらいました。そして今リング上は引退セレモニーに引き続いて、選手全員による、新日本プロレスの選手全員による胴上げが行われたところであります。涙が頬を伝います、山本小鉄。17年間に及びますレスラー生活に、今、ピリオドを打ちまして、これからマットを降りるわけであります。しかしこの後の山本小鉄さんの活躍、解説、あるいは若手への指導、さまざまな面での活躍を期待したいと思います」

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■1981.05.08 アントニオ猪木

「いままで、ブッチャーが闘ってきたようなファイトでは私には勝てません!!」

 1981年5月8日川崎市体育館、ブッチャー登場

 前日の予告通り川崎大会に乗り込んできたアブドーラ・ザ・ブッチャー。放送席で古舘アナのインタビューを受けていたアントニオ猪木はリングインしたブッチャーとにらみ合った。そして放送席からリングへ。ブッチャーのIWGP参加表明を受けて。

 「一言だけ言っておきます。私は過去の※※(聞き取れず)にブッチャーを軽蔑していました。昨日の予告は、今日現れるという宣言は信じていませんでした。しかし今日ここに来たブッチャー、私はブッチャーの勇気には感激します。いままで、ブッチャーが闘ってきたようなファイトでは私には勝てません!!

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■1981.10.21 木村健吾

「らしくもないぜ」

らしくもないぜ あいつはどこに

らしくもないさ 帰らぬ夢さ

いつか知らぬ街で 逢いたいも一度

らしくもないぜ いまさら何を

らしくもないぜ 別れたはずさ

風に話しかけりゃ 唇寒いよ

(作詞:初信之介 作曲:岩城一生)

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■1981.12.13 スタン・ハンセン

「テキサスの化石になれ!」

 1981年12月13日の蔵前国技館で行われた「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場したスタン・ハンセン。そして試合終盤、場外に落ちたテリー・ファンクに強烈なラリアートを見舞った。

 そして試合後のコメント。ザ・ファンクスに対して「テキサスの化石になれ!」

 

 そして入場時には全日本プロレス中継の解説者山田隆氏の名言も。
 

(倉持アナ)「誰でしょうか、ウエスタンハットをかぶっております。ウエスタンハットをかぶった大柄の男」
 
(倉持アナ)「あっ!スタン・ハンセンだ!!スタン・ハンセンがセコンドですよ!」
 
(山田隆)「ハ、ハンセンですよ!」
 
(倉持アナ)「スタン・ハンセンがセコンド。これは大ハプニングが起こりました、蔵前国技館」 

 スタン・ハンセンが全日本プロレスに正式参戦したのは翌1982年1月15日、木更津市倉形スポーツ会館大会。阿修羅原をラリアート一発で病院送りにした。

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■1981.12.13 ジャイアント馬場

「他人の家に土足で入ってくるようなマネをしてくれた」

 1981年12月13日の蔵前国技館「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦で会場に登場したスタン・ハンセンに対してのジャイアント馬場のコメント。

 「ハンセンが殴り込んできたのでカッカしている。どうしてあの野郎が手出しをしなければいかんのだ。セコンドについただけでも迷惑しているのに、他人の家に土足で入ってくるようなマネをしてくれた。こうなっては黙ってられないよ

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■1982.02.04 ジャイアント馬場

「勝負を度外視しても、もう一度闘ってみたい男だ」

 1982年2月4日、東京体育館大会で全日本プロレスに移籍したスタン・ハンセンがジャイアント馬場とシングルマッチ。試合はジョー樋口が巻き込まれる形で両者反則となり、決着はつかず。試合前はハンセンのブルファイトに馬場が耐えられるのかと不安視されたが、終わってみれば「ジャイアント馬場健在」を印象づけた試合となった。

 試合後のジャイアント馬場のコメント「それにしてもたいしたやつだ。今度闘ったらやられるかも知れない。しかしそれでもいいじゃないか。勝負を度外視しても、もう一度闘ってみたい男だ

 この後、4月22日の東京体育館で再戦。6月1日には札幌で3回目のシングルマッチ。この札幌でジャイアント馬場はエプロンに立ったところでラリアートを受け、リングアウト負けを喫した。

 「負けても爽やかな気持ちなんだ。ハンセンはそういう選手なんだ。」「ベルトを賭けなかったので今ひとつ燃えなかった。今度ベルトを賭けなきゃファンも承知しないだろう」

 そして4度目のシングルマッチは、1982年9月14日、愛知県刈谷体育館でのPWF戦。わずか5分56秒でスタン・ハンセンの反則負け。事実上は大暴走したハンセンが馬場をKOした印象の試合となった。

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■1982.07.09 村松友視

「誰がほんとうにいちばん強いかという設問は、ちょっとプロレス的ではない」

 ただ勝てばいいとなれば、ゴングが鳴ったらアンドレのスピードにつき合わず動き回り、スキを見て目玉でもえぐってしまえば良い。これはイノキでなくタイガー・マスクでもありうるかもしれないし、もしかしたら巷のケンカの名人にも可能かもしれない。

 ま、だから、誰がほんとうにいちばん強いかという設問は、ちょっとプロレス的ではないわけです。

「村松友視 - 評伝アントニオ猪木 ファイター」より

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■1982年 ジャイアント馬場

「僕にも弾けた!」

 ヤマハ・エレクトーンのCMでの馬場の台詞。一見おっとりしたジャイアント馬場でもちゃんと弾けるエレクトーンであることをアピールして、商品と共にCMに出演した馬場も人気に。

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■1982.10.08 長州力

「オレはおまえのかませ犬じゃないぞ!」

 メキシコ遠征でUWA世界ヘビー級王座を獲得するなどの実績を積み重ねて帰国した長州力。タッグマッチで藤波の前にコールされるなど、海外遠征前と全く変わらない待遇に反発して、試合後に藤波辰巳に対して叫んだ。

藤波!俺は今まで耐えてきた。俺とお前のどこが違う?俺はお前のかませ犬じゃないぞ!

 藤波も後年、テレビ出演で「目の前でその言葉を聞いた」と証言しているのだが、10.8後楽園大会直後のプロレス雑誌・新聞にはそのマイクパフォーマンスが特に象徴的に取り上げられているとは言えない

 東京スポーツでは長州の控え室のコメントとして「メキシコから帰りの飛行機の中で考えた。俺は藤波の“かませ犬”じゃない、あいつの上に立つチャンスは今しかない」と書かれている。

 これがいつしか“リング上で叫んだ”と多くの雑誌、書籍などに書かれるようになり、そして当事者の記憶にまですり込まれたのではないかと推測する。

 ところが、さらに調べてみると「マイクを持たずに叫んだ言葉なので、放送では聞こえていない」との説もあり。また、長州自身はのちの対談で「あれはマスコミが作った言葉、俺は言っていない」と断言した。しかし、対談の最後に「でも、言ったかも知れないな・・・」と曖昧に言い直している。

 さらに月刊ゴング12月号(10月発売)の写真のクレジットに“かませ犬”の文字が発見されている。月刊ビッグレスラー12月号(10月発売)の長州力のインタビューにも「ここで自分を主張できなかったら、俺は一生“かませ犬”のままで終わるんですよ」と言う発言が掲載されている。

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 本当にリング上のマイクで叫んだ言葉なのか、試合後のインタビューから再構成された叫びなのか、謎は深まるばかりだが、各種メディアで散見されるところを見ると、マスコミが作った言葉では無く、どこかで長州自身が発言した言葉であることは間違いないだろう。

 本サイトでは、「I編集長の喫茶店トーク」を掲載しているが、I編集長も長州力がリング上で叫んだことを前提に、その背景を語っている。(全文掲載まで、しばらくお待ちください)

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■1982.10.08 長州力

「オレだってねぇ・・・」

 ゴング3月号増刊「維新魂」(1984.3.15)の記事より

 「リング上での醜態に怒ったA猪木は控え室で藤波に張り手を飛ばした後、長州に襲いかかった。“長州!貴様”と怒りの鉄拳を放ち、制裁を加える猪木。

 長州は“オレだってねぇ・・・”と言い返したが、その後の言葉を飲み込んだ

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■1982.10.15 アニマル浜口

「今日は乱入で来てるんじゃないぞ!」

 1982年10月15日、大垣市スポーツセンターの「藤波vsブッチャー」のシングルマッチ。ブッチャーの入場シーンを全く無視して放送席に乗り込んできたラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の国際軍団

 古舘アナを放送席から力尽くで鉄柵越しにリング下まで引きずり出したアニマル浜口が、放送席と観客に向かってアジテーション。

(浜口)「今日は乱入で来てるんじゃないぞ。コノヤロー。今日は新間さんに(から?)この間返事があったけど、俺たちは正々堂々と戦いたいんだ、コノヤロー。国際の○※☆◇じゃないからな。(聞き取れず)」

「俺たち国際軍団だけで正々堂々とアントニオ猪木を叩きつぶしてやる。藤波、テメーも同じだコノヤロー」

 毎週、毎週、生放送で乱入してアピールする国際軍団。「正々堂々と」、最高です。でもこれ、やっぱり「乱入」だよね。

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■1982.10.15 アントニオ猪木

「ガタガタ言わせない。三人いっぺんにね、俺一人で勝負してやりますよ」

 1982年10月15日、大垣市スポーツセンターのメインイベント終了後のリング上でのインタビュー。

保坂アナ)猪木さん、また国際軍団が正々堂々と闘うというふうにアピールしてきました。猪木さんの意気込みを聞かせてください。

猪木)まあ、昨日フロントとの話し合いでね、国際軍団がリングに上がると言うことは聞いていましたけどね、この前、大阪で決着がついてますからね。もう、この際あいつらにガタガタ言わせない。三人いっぺんにね、俺一人で勝負してやりますよ。全部丸坊主にしてね、この際、国際のやつらを全部消してやる!

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■1982.10.22 藤波辰巳

「こんなところでインタビューしてる場合じゃ無いよ!なんだこの試合は!」

 1982年10月22日、広島県立体育館で行われた「藤波vs長州」のシングルマッチ。長州が10.8後楽園ホールで藤波に反旗を翻したあとの最初の対戦だった。ノーコンテストの結果の後、リング上でインタビューマイクを向けられた藤波は、

朝岡アナ)藤波さん、大変な試合になってしまったんですけども、これはどういう風に・・・

藤波)こんなところでインタビューしてる場合じゃ無いよ!なんだこの試合は!(バコッ!・・・マイクをマットにたたきつけた音)

古舘アナ)今、朝岡アナウンサーがインタビューを試みましたが、両雄はかなりエキサイトしております。またしても、またしても取っ組み合いであります。藤波から仕掛けていった。長州張り手で応戦!長州も張り手で応戦!

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■1982.11.10 井上義啓

「そう感じとった人の心には、それは紛れもない真実となる」

 井上義啓氏の著書「猪木は死ぬか - 超過激なプロレスの終焉」の中で語られている至言。

 「プロレスに真実はないが、少なくとも、こうであった筈だとの思い込みは存在する。その思い込みが真実でなかろうと、そう感じとった人の心には、それは紛れもない真実となる

 これこそが昭和プロレスの読み方である。

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■1983.03.21 ラッシャー木村

「平吾・・・仕事だ・・・」

 1983年3月21日、鹿児島県鹿屋市-ビッグ・ファイト・シリーズ-鹿屋大会終了後、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇、ミスター高橋の4人が居酒屋(「おいどん」??)で飲んでいた。

寺西)なあ、高橋さん、こう言っちゃ悪いけど、ちょっとヒドイよな、1対3てのは・・・・

浜口)あんた新日の人だから言いづらいだろうけどね。俺と寺さんはともかくだ、おっとうのことを猪木は、新日のフロントは、どう考えているんだ?

高橋)確かに・・・、きついマッチメークだとは思いますよ。でもお客さんは入ってますし・・・でもさ、国際のエースだった人をねェ・・・

寺西)そうそう、そこんところをどう考えているかだよ!だいたいな、セメントでやったらおっとうが一番強いんだ!

浜口)そうだ!おっとうが一番強い!

寺西)猪木のヤロー、足下を見やがって・・・

浜口)それなのに猪木のヤローッ・・・

ラッシャー木村)「平吾・・・仕事だ・・・」

 文・イラスト:「別冊宝島 プロレススーパースター列伝」より

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■1983.04.03 長州力

「俺の人生にも一度ぐらい幸せな日があっていいだろう」

 蔵前国技館で藤波辰巳からWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取した長州力が、控え室で語った言葉。

 ただし、翌日のスポーツ紙やこの試合をリポートしたプロレス各誌には試合後の長州の談話として「これでやっと藤波と五分と五分になった。これからが本当の勝負だ」というコメントが取り上げられている。これも藤波に一度勝ったぐらいで「次は猪木だ」と言わない長州の非常にノーマルで堅実な思考をうかがわせる名言である。

 「俺の人生にも一度ぐらい幸せな日があっていいだろう」。この名言をインタビュー記事の大きな見出しに持ってきたのは週刊ファイト。試合後のインタビューが終わって立ち去ろうとした瞬間に長州がつぶやいた言葉である。長州の絶望と長いトンネルの向こうのわずかな光を読み取ることが出来る。そして古舘伊知郎アナがこの言葉をテレビ中継で何度も繰り返したため、「これでやっと藤波と五分と五分・・・」のコメントよりも、帰り際の長州のつぶやき、「俺の人生にも・・・」の方が名言として伝えられることになった。

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■1983.06.02 古舘伊知郎

「乾ききった時代に送る、まるで雨乞いの儀式のように!」

 アックスボンバーでKOされ、舌を出しながら失神した猪木。騒然として静まりかえった会場に誰からともなく猪木コールが沸き起こった。前代未聞の事態に即興でこのような名言を紡ぎ出して表現する古舘伊知郎はまさに言葉の魔術師だ。

「ここで猪木コールだ!。乾ききった時代に送る、まるで雨乞いの儀式のように、猪木に対する悲しげなファンの声援が飛んでいる!」

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■1983.08.04 藤波辰巳

「徹底的に差をつけて勝たない限りベルトを腰に巻く気は無い」

 1983年8月4日、蔵前国技館で行われた、WWFインターナショナルヘビー級選手権試合・長州力vs藤波辰巳戦。藤波は場外で鉄柱攻撃、延髄斬り、バックドロップと攻め立て、リングアウト勝ちを拾った。しかし結末に納得のいかない藤波はベルト返上を申し出た。

 試合後にインタビューに答えて「たとえフォール勝ちしたとしてもベルト返上を申し出ていたことに変わりはないです。何というかすっきりしないんすよ。徹底的に差をつけて勝たない限りベルトを腰に巻く気は無いですね。長州との勝負はそんな薄っぺらなものでは無いですよ。誰が見ても藤波が完全に勝ったという勝負ないとね」と語った。

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■1983.08.04 長州力

「彼からベルトを奪えるレスラーがいるとしたら、それは俺だけだ」

 1983年8月4日、蔵前国技館で行われた、WWFインターナショナルヘビー級選手権試合・長州力vs藤波辰巳戦。

 試合を終えたの長州のコメントは、「完敗だ。今日は何も言うことは無い。彼は素晴らしいよ。これでスーパースターになったと言えるんじゃないか。ただ彼からベルトを奪えるレスラーがいるとしたら、それは俺だけだ。昨年10月から俺も彼も大きく成長したと言えるんじゃないか」と藤波を称えながら、藤波との闘いを振り返った。

 写真は猪木vsハンセンの広島でのコンマ1秒差のラリアートを彷彿とさせるラリアートの相打ち。藤波のラリアートが一瞬早かった。

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■1983.08.28 アントニオ猪木

「俺の首をかっ切ってみろ!」

 1983年6月2日、IWGPの決勝戦でハルク・ホーガンのアックス・ボンバーによってKOされたアントニオ猪木が87日ぶりに復活して田園コロシアムのリングに立った。ラッシャー木村を一騎打ちで下したあと、リングになだれ込んだ長州軍団、新国際軍団に向かって発した名言。

 しかし、前段には「てめえら姑息な汚ねえことするな。片っ端からかかってこい!」と叫んでいる。猪木欠場を支えて1シリーズを乗り切った長州軍団、新国際軍団がこの日に「姑息な汚えこと」と言われる筋合いは無い。猪木の怒りは、社長退陣を迫っているクーデター派に対してのものと言われている。プロレスのファンタジーと現実の出来事に境界線がないのが猪木の魅力。猪木のプロレスは怒りも喜びも全てが真剣勝負なのだ。

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■1984.02.03 藤波辰巳

「こんな会社、辞めてやる」

 札幌中島体育センターで長州力とのWWFインターナショナルヘビー級選手権試合がテロリスト藤原の長州襲撃によってぶちこわされ、ノーコンテストに。怒り心頭の藤波がショートタイツのまま雪の降る体育館外へ飛び出して発した会社批判。世のサラリーマンは何度この言葉を心の中でつぶやいたことか・・・
 正確には「新日本プロレスを辞めたい。こんな会社では仕事をしたくない。猪木さんにそう言っておけ!」と言った言葉が要約されて伝えられているらしい。
 そのままタクシーに乗車して宿泊先のホテルへ。しかし財布も何も持っていなかったので、降車時にトラブル発生というおまけ付き。

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■1984.3 新間寿

「私はプロレス界に万里の長城を築く」

 第3団体「ユニバーサル・プロレスリング」の旗揚げ戦のポスターに載った新間氏の言葉。出場予定選手として新日本プロレスの外人トップレスラーが写真とともに多数掲載され話題になった。紆余曲折について今でも新たな「真相」が語られるが、結果的には旗揚げ戦はテレビも付かず、豪華外人レスラーの参加も無く「万里の長城」は築けなかった。

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■1984.10頃 ジャイアント馬場

「シューティングを越えたものがプロレスなんだよ」

 従来のプロレスと差別化を図る第1次UWFの格闘技路線を評しての発言。

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■1984年頃 長州力

「プロレス界に非常ベルが鳴っている」

 新日本プロレス本体に造反して以来、長州力の行動原理となっている言葉。革命軍・維新軍の理念を表している。

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■1985.03.22 ブルーザー・ブローディ

「猪木の目にバーニングスピリットを感じた」

 スーツ姿、左手にチェーン、右手に花束を携え後楽園ホールの客席に登場した ブルーザー・ブローディ。リング上でアントニオ猪木と視殺戦を繰り広げた翌日の記者会見で語った言葉。
 これから始まる新たな闘いに夢が膨らんだ。

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■1985.05.17 藤波辰巳

「おまえ、平田だろう!」

 熊本県立体育館のテレビ生放送で藤波はアイアン・マイクシャープと対戦。この試合に乱入して藤波に襲いかかったのが、K・Y・若松。それを阻止するためにリングに入ってきたのがスーパー・ストロングマシーン、と言う構図。結果的に藤波を助けた形になったスーパー・ストロングマシーンに投げかけた藤波の言葉。リング上のストーリーの流れとして、スーパー・ストロングマシーンがマスクを脱いで素顔にもどるのは時間の問題、という状況。しかし、その後マシーンがしばらくマスクを脱がない展開へと変わってしまっため藤波のこの言葉は、「いやいや、ここで言わなくても・・・・みんな知ってるんだから」というドラゴン・マイクとして後世に残ってしまった。

 正確にはマイク冒頭「平田だろ、お前!」と言っている。ドラゴン滑舌の藤波のマイクにしゃべり続ける古舘アナの実況がかぶって、放送では聞き取りにくく、続けて何度もマイクに「平田・・・」と言うワードが出てくるので、「おまえ、平田だろう!」とも言っているかも知れない、その方が面白いから「おまえ、平田だろう!」で定着してしまった伝説のマイク。

 後日、藤波は「とっさにマイクを渡されて、何を言っていいのかわからず、つい、マスクに中身の平田に話しかけてしまった」と話している。放送を見返すと、リング下でエプロンにそっとマイクを置く田中リングアナが映っているので、実は藤波のマイクも段取り通りだったように思われる。ただし藤波はノープランだったということか。

 

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■1985.08.05 長州力

「俺たちの時代だ!」

 ジャパンプロレス主催の大阪城ホール大会の試合後にリング上で長州が叫んだ言葉。「もう馬場、猪木の時代じゃないぞ!鶴田、藤波、そして俺たちの若い世代の時代だ」。全日のリングに上がっている時期なので、鶴田・天龍を指して「俺たち」と言うべきだろうが、藤波にも呼びかけたため、プロレスマスコミが一斉に取り上げた。

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■1985.12.06 前田日明

「この1年半が何であったかを証明するためにやってきました」

 活動停止に追い込まれたUWFの前田・藤原・木戸・高田・山崎、5選手が新日本プロレスにUターン。両国国技館のリング上で。

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■1986.02.06 前田日明

「アントニオ猪木なら、なにをやっても許されるのか!」

 新日本プロレスとUWFの頂上対決、アントニオ猪木vs藤原喜明は猪木の反則すれすれのキックとパンチで決着がついた。猪木のダーティとも思える攻撃に対しての前田の怒りのコメント。前田は終了ゴング直後にリングに上がり猪木の喉元への強烈なキックでダウンさせた。

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■1986.04.29 前田日明、星野勘太郎

「星野さん、やっちゃっていいですか?」
「俺に聞くな」

 1986年4月29日、三重県津市体育館で行われた前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント戦。試合開始前からアンドレが「前田を潰す」と“本気”で言っており、レフリーの交代など不穏な雰囲気だった。試合内容も予告通りアンドレが前田の技を全く受けず、力で前田を潰そうとする展開となった。なんとかプロレスを成立させようとする前田だったが、アンドレには全くその気が無くかみ合わない。それだけでなく前田は身の危険も感じ取っていた。困ってしまった前田はセコンドにいた星野勘太郎に言った。
 

 「星野さん、やっちゃっていいですか?」
 

 この問いかけに星野は「俺に聞くな」と返答。キャプチャ画像はそのやりとりの瞬間。

 (前田は、この話を多くのメディアで語っており、「星野さん、どうしたらいいですか?」と聞いたと発言している場合もある)

 この“事件”を仕掛けたのは誰?。アントニオ猪木説、坂口征二説、「俺に聞くな」の張本人、星野勘太郎説、アンドレ単独説、複数説・・・・。前田は控え室でそっぽを向いて前田と目を合わせなかった坂口だと断定している。しかし観客を無視した試合を一番嫌うのは坂口。さらに仕掛け人は一人じゃないとの藤原談。アンドレは試合後「It's not my business.」俺は関係ない、と。そしてアントニオ猪木は試合後の控え室で前田に対して「よくやった」と称えていた。

 さらに、この全く動きの無い異様なプロレスを30分間実況し続けた古舘アナは、まさに「天才」。

 一部地域でのみ放送された?幻のビデオ

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■1986.04.30 ケリー・ブラウン

「I like you, I like you.」

 1986年4月30日、愛知県・岡崎市体育館で「新日本プロレス ビッグファイターシリーズ第16戦」が行われた。この日の第7試合は、前田日明vsケリー・ブラウン。試合開始早々のロックアップの攻防、まずはケリー・ブラウンが前田をコーナーに押し込む。そしてブレイクの後、再度のロックアップでは前田がブラウンをコーナーに押し込んだ。
 

 その瞬間、ケリー・ブラウンは前田にささやいた。「I like you, I like you.」。(前田日明談)
 

 前田日明は前日の4月29日、津市体育館でのアンドレ・ザ・ジャイアントとの対戦でプロレスファンに永遠に語り継がれるであろう「セメントマッチ」を行い、実質的にアンドレを戦意喪失に追い込むほどの猛攻を見せていた。

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■1986.06.12 前田日明

「ある島にやっとたどり着き、無人島だと思ったら仲間がいた」

 大阪城ホールでの藤波辰巳との一騎打ち(両者ノックアウト)を終えて控え室で語った言葉。新日本プロレスのストロングスタイルとUWFスタイルが融合した新しいプロレスの到来を感じさせた。前田のニールキックの失敗も藤波の打たれ強さによって成立した名勝負。

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■1986.11.18 週刊プロレス(斎藤文彦)

「週プロ読者は、この猪木発言を自分の頭で因数分解しなければならない」

 1986年11月3日後楽園ホール 木村&武藤vs猪木&ケビン

 猪木が試合終了後のリング上で武藤に対して執拗な謎の制裁を加えた。見かねた木村(健)がリング上で猪木を制止し、控え室に戻っても珍しく猪木につっかかっていった。木村も武藤も猪木の行動を理解できず、納得もしていなかった。

猪木発言)「いま、あいつらに課せられた責任っていうのはとてつもなく大きいんだよ。もう、俺なんかにおぶさっている時なんかじゃないんだ。日本マット界の歴史の中で、新日本のプロレスというものがいったいどんな意味をもっているのかってことをよく考えてほしい
 俺だって、いつまでも奇跡は起こせない!
 今日の試合を見ていたお客さんがどう思ったかは知らないし、武藤、そして木村がどう感じようと、どんなに俺を憎もうとそれはヤツらの勝手だ。しかし、いつかは俺の言っていることがわかる日が必ずやってくるよ。いまは、ゆっくりと考えてほしい」

 この発言について、週刊プロレスのライター斎藤文彦氏が書いた記事のコメント。

 「週プロ読者は、この猪木発言を自分の頭で因数分解しなければならない

 井上義啓編集長から山本隆司、斎藤文彦へと受け継がれる考えるプロレスの難解な世界。

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■1987.03.26 前田日明

「常勝チャンピオンなんて、クソ喰らえだよ!」

 IWGPタッグチャンピオンチーム前田&高田組は大阪城ホールで武藤&越中組の挑戦を退けた。負けた越中詩郎のマイクアピール、「前田選手、もう一度お願いします」に応えた言葉。これもまた前田の理想とするプロレスを表した言葉。

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■1987.04.06 マサ斎藤

「猪木、お前も男だったら、俺ともう一回闘え」

 1987年4月6日 テレビ朝日、新番組「ギブアップまで待てない、ワールドプロレスリング」初回放送のスタジオ収録にて。

 「もう一度、猪木、お前も男だったら、お前がレスラーというプライドを持っているんだったら、俺ともう一回闘え。俺は徹底的に闘う」

 斎藤はなぎら健壱に手錠をかけて「こんなので試合できるか!」とスタジオを出て行った。

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■1987.04.27 長州力

「猪木、俺たちがテメエらを討ってやる、この闘いは!」

 全日本プロレスに移籍して約2年半、長州力が新日本プロレスの会場に現れ、両国国技館のメインイベントでマサ斎藤をKOしたアントニオ猪木に向かい、フェンスを乗り越える勢いで叫んだ。「猪木、※○△■☆◎×・・・・。俺たちがテメエらを討ってやる、この闘いは!」

 例によって途中は何を言っているのか聞き取れず。ただ、この印象的な言葉は聞き取れた。そしてこの日、長州はフェンスを“またぐ”ことだけはしなかった。このシーンは「ギブアップまで待てない、ワールドプロレスリング」のオープニングタイトルで何度も使われることになった。

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■1987.05.12 馳浩

「止まるわけないだろう、何考えてるんだ」

 4月からスタートしたテレビ朝日の新たなプロレス番組“ギブアップまで待てない・ワールドプロレスリング”のスタジオゲストとして登場した馳浩。

 猪木vsマサ斎藤戦で馳が先導して控え室に引き上げるシーンのVを受けて、MC山田邦子が「あれは控え室で血なんかはすぐ止まるものなんですか?」という質問。この一言に馳がキレて一喝した言葉。山田邦子の凍りついた表情が印象的だった。

 バラエティ路線に切り替わった番組だったが、馳はプロレスラーらしさを発揮してファンの喝采を浴びた。

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■1987.06.09 ジャイアント馬場

「相手が大きいとこんなに恐怖感があるのか。俺はえらく得してるんだな」

 ジャイアント馬場のこの発言は1987年6月9日、日本武道館でラジャ・ライオンと闘った後の感想。「相手が大きいとこんなに恐怖感があるのか。俺はえらく得してるんだな」と再認識。

 馬場が自分より大きい選手とシングルマッチで闘ったのは生涯3回だと菊池孝氏がテレビ番組で語っている。

 菊池孝氏によると、アメリカでスカイハイ・クルーガーと対戦(たぶん210cmのスカイハイ・リーとの言い間違い)、日本プロレス時代にザ・コンビクト(214cm)と対戦、そして異種格闘技戦のラジャ・ライオン(220cm)戦。

 馬場選手より11cmも背が高いラジャ・ライオン。空を切ったハイキックがジャイアント馬場の頭の上を越えている。恐るべし!?、ラジャ・ライオン

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■1987.06.12 長州力

「藤波、前田、おまえら噛みつかないのか!」

 アントニオ猪木vsマサ斎藤のIWGP決勝戦(両国国技館)の決着のゴングとともにリングに駆け上がった長州力が叫んだ言葉。

「藤波、俺は自分たちの世界を変えるために3年間叫んできたぞ。藤波、前田、今こそ新旧交代だ。藤波、前田、おまえら噛みつかないのか!今しかないぞ、俺たちがやるのは!」

 ニューリーダーの結束を呼びかけ、旧世代に対して「世代闘争」の宣戦布告を行った。木村(健)兄さんの名前が呼ばれなかったのが、ちょっとさみしい。

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■1987.06.12 アントニオ猪木

「その気で来るなら俺が受けてやるぜ。テメーらの力で勝ち取ってみろ」

 世代闘争を仕掛けられたアントニオ猪木が答えた言葉。「お客さーん、聞いてくれ。テメーらいいか、その気で来るなら俺が受けてやるぜ。テメーらの力で勝ち取ってみろ、コノヤロー」

 こう叫んだ後、先ほどまで死闘を展開していたマサ斎藤とがっちりと手を組んだ。そしてこの時もドン荒川は絶妙の位置取り。

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■1987.06.12 前田日明

「誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ」

 アントニオ猪木vsマサ斎藤のIWGP決勝戦の決着のゴングとともにリングに駆け上がった長州力の「お前らは噛みつかないのか!」の言葉に応えて前田が叫んだ言葉。ニューリーダーの結束とは若干ニュアンスが違うが、前田の信念を表している。

 正確に書き起こすと、「どうせやるんだったら、世代闘争に終わらんとな、誰が強いか、一番強いかね、決まるまでやりゃあいいんだよ、決まるまで!」。マイクの途中で何度かかんでしまったのが残念だが、それも前田らしい。少し聞き取りにくいが「世代闘争」と言っている。ということは、前田が初めてこのワード出したことになる(勇み足?)。そして藤波が「やるぞー!」と叫んで締めた。

 後の前田日明の話によると、この日は試合前に長州・藤波・木村・前田で話し合って、IWGP決勝戦終了後にリングになだれ込んで「世代闘争」を仕掛けることを決めていたとのこと。それぞれマイクで何を言うのか割り振っていたが、前田は「みんなごちゃごちゃと何を言ってるのかわからないので、アドリブでこのセリフを叫んだ」と話している。

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■1987.08.02 アントニオ猪木

「木村、藤波、長州、前田、ベルトはいつでも用意してるぞ」

 1987年8月2日、両国国技館でクラッシャー・バンバン・ビガロを相手にIWGPヘビー級選手権を防衛したアントニオ猪木。

 「よく聞け、木村、藤波、長州、前田、ベルトはいつでも用意してるぞ。取りに来い。いいかー!」

 そして8月19日、20日の蔵前国技館「サマーナイトフィーバーin国技館」は世代闘争で最高潮の盛り上がりを見せた。アントニオ猪木の口から新世代のメンバーとして木村(健)兄さんが一番に呼ばれてよかった。

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■1987.08.20 アニマル浜口

「ありがとう、プロレス。さようなら、プロレス」

 1987年8月20日、両国国技館「サマーナイトフィーバーin国技館」でアニマル浜口の引退式が行われた。

 「長い間、ご声援ありがとうございました。この四角いリングに、僕の青春がありました人生があったんですよ。ありがとう、プロレス。さようなら、プロレス。ありがとうございました」

 アニマル浜口らしい最後の挨拶だった。

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■1987.08.30 前田日明

「1年たとうが2年たとうが、いつだって妥協しないぜ」

 1987年8月30日、後楽園ホール。UWF自主興行のメインイベント、藤原喜明との試合後。

 「1年たとうが2年たとうが、いつだって妥協しないぜ」

 シンプルな言葉だが、世代闘争、ジャパン勢のUターン、UWFと新日プロとの契約、そして全日本プロレスのリングでの天龍源一郎の過激な闘いへの対抗心など、様々な思いの中から発せられた叫び。

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1987.10.04 アントニオ猪木

「齋藤、もういいだろ、行くぞ!」

 巌流島の闘いは既に2時間を経過していた。お互い大流血で体力の限界の中、アントニオ猪木はマサ斎藤にブレーンバスターを見舞った後、この言葉を斎藤投げかけてリングを降りた。猪木に「もういいだろう」と言わせるシーンがこの闘いの過酷さを表現している。

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1987.10.04 マサ斎藤

「イノーキ!、まだだー、戻ってこーい!」

 試合エリアから出て闘いを終えようとする猪木を呼び戻す斎藤。巌流島でのプロレスは藤波辰巳の発案を猪木が横取りして実現したと言われている。その流れからすれば、「猪木vs藤波」となっても良さそうに思えるが、アントニオ猪木はマサ斎藤を対戦相手に選んだ。藤波はくやしいかも知れないが、当時はこの2人にしか創り出せない世界だった。

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■1987.10.05 長州力

「てめえ、このクソたわけ!」

 1987年の10月だったっけかな? 後楽園ホールでやったね、約3年ぶりに。 やっぱり、お互い経験してきたことが違っていたから、以前とちょっと違う雰囲気があったのは確かだ。でもやっているうちに無我夢中になっちまう感覚は変わらない。

 いいんだよな、あの人とロックアップしたときの感触がさ。心の底から「てめえ、このクソたわけ!」って気持ちが自然と湧いてくる。

アスキー新書「名勝負数え歌 - 藤波辰爾・長州力」より

 正確には“名言”ではなくて心の叫び?。ただ、長州の試合を見ていると、この言葉を叫んでいるシーンがよくある・・・・様な気がする。

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■1987.10.19 長州力

「トップは俺が走ってやる」

 10月19日の静岡・富士吉原体育館で行われたアントニオ猪木&山田恵一vs藤波辰巳&長州力のタッグマッチ。試合の終盤、藤波が猪木をあわやフォールするかというシーンを長州が“無法キック”で阻止。そして世代闘争の同胞であるはずの藤波にラリアートを見舞った。

 「藤波、猪木とテメエの首は俺が先に獲るぞ。トップは俺が走ってやる」

 なんとも身勝手な長州の行動だが、猪木の首は藤波には獲らせない、自分で獲ってトップに立つとの宣言。この言葉を最後に世代闘争は終了。

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■1987.10.25 前田日明

「長州力は“言うだけ番長”」

 10月19日の静岡大会、藤波とのタッグで一方的に藤波を裏切り「トップは俺が走ってやる」と宣言した長州に対して、後日前田が語ったコメント。長州との考え方の違いが次第にあらわになり、11.19後楽園ホールの事件につながる。

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■1987.11.19 後楽園ホールの観客

「長州、強いぞー、強い!。高田も大人だ!」

 前田日明の無法キックで右目に大けがを負った長州力だったが、何食わぬ顔で試合を続行。最後は高田延彦をきっちりとリキ・ラリアートで沈めて3カウントを奪った。決着がついた瞬間の観客の名言。
 長州力のプロレスラーとしてのプライドを賞賛した「長州、強いぞー!」。なにがあってもきちんと仕事をこなす高田延彦を賞賛した「高田も大人だ!」。しっかりとプロレスを楽しんでいる。

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■1987.12.27 木村健吾

「たけし、俺たちじゃ不足か、コノヤロー」

 ビッグ・バン・ベイダーの登場で大混乱の「イヤーエンド国技館」。執拗に猪木に対戦を迫るたけし軍団、マサ斎藤。斎藤が放り投げたマイクをたまたまキャッチしてしまった木村健吾。この日のやりとりでは忘れられがちだが、しっかりアピールしている。

 木村健吾「たけし、俺たちじゃ不足か、コノヤロー、お前、コノヤロー」

 この後にすぐ猪木がリングに入り、「どーですか?」の発言となったために、健吾兄さんの叫びには結局、誰も応えず・・・・。ただ、猪木がリングに入るまでのつなぎとして何か言わなければ場が持たないのも確か。木村(健)兄さんはしっかりと中継ぎの役割をこなして、猪木にマイクを渡した。密かに名アシスト、さすが健吾兄さん。

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■1987.12.27 アントニオ猪木

「どーですか?お客さん」

 ビッグ・バン・ベイダーの登場で大混乱の「イヤーエンド国技館」。たけしプロレス軍団のやりたい放題に見かねたアントニオ猪木が登場。そしてリング上で叫んだ言葉。

 猪木「まてまてまて、聞けよ俺の話を。テメーらこんな事されて黙ってんのか、コノヤロー。よーし齋藤テメー受けてやるぞコノヤロー来い。どうですかー?俺が打つから、俺が!」

 この言葉がビートたけしのネタ「どーですか?お客さん」として受け継がれている。

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■1987.12.27 長州力

「頼むから、試合だけはやらせてくれ」

 たけしプロレス軍団と猪木の強引なカード変更に納得できない国技館の観衆は、セミファイナルの藤波&木村vs長州&斎藤のタッグマッチの試合中、試合ができなくなるほどの空き缶や瓶、ゴミなどをリングに投げ込み、“やめろ”コールで抗議した。なんとか試合を終えた長州が、マイクを持って観客に言った。

 どんなカードになっても、納得できなくても、試合だけはちゃんとやらせて欲しいと観客を説得している。維新でも世代闘争でも無いリアルな新日本プロレス社員としての大人の発言。4人のメンバーの中でこの発言ができるのが長州のリーダーシップだ。木村(健)兄さんとかにも平等にチャンスがあったのに。

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■1988.03.27 山田 隆

「大変に立派なね、まるで食パンを埋め込んだような筋肉してますね」

 1988.03.27 日本武道館 高木功vsトム・マギーの放送解説・山田隆氏のコメント。
 (2021.04.29「ねひつじ」さんのtwitter書き込みで発見)

 うまい!、古舘伊知郎もビックリの喩えです。言われてみれば確かにその通り。山田隆氏と言えば、「ハンセンですよ!」が名言ですが、当時の全日本プロレス中継のコメントは、今になって聞きば聞くほどクセになる語りです。

倉持「いや〜もうホントに立派な筋肉。この背中の筋肉は山田さん、何と言うんですか?」

山田「背筋ですね」

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■1988.04.22 アントニオ猪木

「やれるのか、おい!」

 沖縄・奥武山体育館のメインイベント終了後の控え室で藤波辰巳の「飛龍革命」が始まった。藤波は「今ベイダーと闘うべきなのは、猪木では無く自分(藤波)だ」と悲壮な決意で猪木に迫った。それを受けての猪木はこの発言とともに藤波に張り手を見舞った。

 「やれんのか!」という格闘技イベントのタイトルは、この言葉から来ている。

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■1988.04.22 藤波辰巳

「◎○※△□+◎■☆α・・・・」

 沖縄・奥武山体育館のメインイベント終了後の控え室で藤波辰巳の「飛龍革命」が始まった。「ベイダーと闘うべきなのは、自分(藤波)だ」と迫る藤波に、猪木は「やれるのか、おい!」と張り手を見舞った。反射的に張り手を打ち返した藤波が猪木に「◎○※△□+◎■☆α・・・・」と叫んだ。何を言ったのか、未だに不明のまま。藤波本人にもわからない。

 ユリオカ超特Qによれば、「モイスチャーミルク配合です」と言っているとのこと。100回ぐらい再生して確認すると「もういいです。ほっといてください」と聞こえなくもない。

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■1988.05.12 前田日明

「選ばれし者の恍惚と不安、ふたつ我にあり」

 新生UWF旗揚げ戦、後楽園ホールでの挨拶。三島由紀夫や太宰治をよく読んでいた前田の文学青年らしさがうかがえる。出典は詩人ヴェルレーヌの言葉で三島由紀夫が好んで使っていた。

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■1988.08.26 アントニオ猪木

「長州、よく聞け!これは俺の靴だ!」

 藤波にベイダー戦を譲って長期欠場していたアントニオ猪木が、1988年8月26日の後楽園ホール大会のリングで挨拶を行った。

 引退もささやかれていたこのタイミングでのアントニオ猪木来場。猪木は、まず最初に観客に来場のお礼を述べ始めた。その挨拶の途中に長州力がリングに駆け上がり、猪木の足下に無言でリングシューズをたたきつけるように置いて無言のままリングを出て行った。

 しばらく黙っていた猪木だが、そのまま挨拶を続行。
(猪木)「先日、“猪木を絶対に辞めさせない会というのが発足”しました。絶対辞めない訳にはいきませんが、昨日より藤波、長州、齋藤、坂口、みんなが会議を持ったそうです。それで、なんとしてもリングに上がってこいと、辞めるならば、新日本プロレスの全選手を相手にしてから辞めろというふうなこと(会話)もあったそうですが・・・・近いうちにリングにまた登場させていただきます。よろしくお願いいたします」

 そして猪木は最後に足もとのリングシューズを拾い上げ、「長州、よく聞け!これは俺の靴だ!」と言い残し、リングシューズを手にしてリングを降りた。

 猪木としてはこの一言で「わかった、まだまだやってやる」と言うことを力強く表現したかったのだが、うまく観客に伝わらず、笑いが起きたまま挨拶を終えることになってしまった。ちょっとハズしてしまった名言かも。

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■1989年頃? ジャイアント馬場

「プロレスとは?プロレスだよ」

 新日本プロレスのアピールするストロングスタイル、格闘技路線、UWFの推し進める格闘プロレスが大きく取り上げられる中、ジャイアント馬場がマスコミに向けて語ったプロレス論。禅問答のようだが真実を語っているとも言える。

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■1988.12.22 UWF神社長

「チケット持ってますか?」

 大仁田厚は新団体「格闘技連盟」のエースとしてリング上で前田日明に挑戦を表明するため、当時チケット完売でブームを巻き起こしていたUWFの大阪府立体育館大会に入った。しかし、アポ無しだったため、神社長のこの言葉で門前払いをくらってしまい目的が達成できず。

 その後、FMWを立ち上げデスマッチ、エンターテインメント路線のプロレスで人気を博したのは、このような予定調和のない行動にリアリティがあったからかも知れない。

写真:週刊プロレスNo.307号より

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■1989.03.15 鈴木実

「立て、くそジジイ!」

 2.22両国国技館大会で長州力に完璧なスリーカウントを奪われたアントニオ猪木は、'89ビッグファイトシリーズは自ら前座レスラーに格下げして、第一試合への出場で「一から出直し」を行っていた。

 そして、3月15日愛知県体育館大会では、弱冠20歳、デビュー9ヶ月の若手ホープ・鈴木実が猪木と対戦した。

 リングに上がった鈴木は「あわよくば、猪木をつぶしてやろう」という気迫で試合に臨んだ。ローキックで猪木を牽制し、ネックロックから首投げ、そして猪木に張り手を見舞って一言、「立て、くそジジイ!」

 怒った猪木は鈴木に「弓を引く右ストレート」を2発。その後もまるでスパーリングのようなストロングスタイルの攻防から、最後は猪木の弓矢固めで決着した。

 試合終了後、鈴木は控え室で星野勘太郎とミスター高橋からもグーパンチをもらった(鈴木実談2015.2.21twitter)。「何がくそジジイだ、このくそガキが!」と。

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■1989年 ジャイアント馬場

「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」

 全日本プロレスが打ち出したキャッチフレーズ。王道のプロレスの路線を示した言葉としてファンに支持された。格闘技路線でブームを巻き起こしていた新生UWF、ビッグイベントに異種格闘技戦で観客を引きつけようとする新日本プロレスに対抗したもの。

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■1989.04.24 獣神ライガー

「山田恵一はリバプールの風になりました」

 新日本プロレス初の東京ドーム大会でデビューしたマスクマン、獣神ライガーの言葉。

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■1989.06.16 アントニオ猪木

「来月の23日に行われます異種格闘技戦に備えて、このシリーズは十分体調を整えて頑張って参りたいと思います」

 1989年5月25日の大阪城ホール、チョチョシビリとの再戦以来リングに上がっていないアントニオ猪木。再婚、参議院選出馬表明、と新聞・週刊誌を賑わせていたが、この日久しぶりに後楽園ホールに来場した。

 そしてメインイベントの試合を終えた長州力がリング上から猪木を呼び込んだ。

 

名言集

(長州)「猪木さん、リングに上がってください」

 そして猪木がリングイン。(長州)「猪木さんは我々門下生にも今まで十分すぎるほどのものを与えてくれました。次は猪木さんに好きなことをやらせてください。猪木さん、今から好きなことをしてください。我々は猪木さんの闘魂をなくしませんから、安心して、今一番やりたいことを本当にやってください」

 

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(マサ齋藤)「猪木さん、若いやつがそう言ってるんです。レスリングは、リングは長州に任せて、あとは猪木さん、好きなことを十分にやってください

(猪木)「もう、新聞・週刊誌でご存じかと思います。えー、結婚しました

 選挙に向けての挨拶かと構えていた観客対して、まずはつかみの一言。そして

(猪木)「それと、来月の23日に行われます異種格闘技戦に備えて、このシリーズは十分体調を整えて頑張って参りたいと思います。よろしくお願いします

 猪木は新日本プロレスの選手全員から新しいチャレンジを祝福され、リング上にいた選手と握手を交わした。新日本プロレスとしては、会社のステータス、プロレスのステータスのアップのためにも是非、猪木に当選して欲しかった。ただ、猪木にリングから退いてもらうことで、自由なプロレスができるという思いも強く、そのためにも猪木の政界進出を一丸となって支援していたともいえる。あまりにも手放しで喜ばれるのは複雑な心境だと思われるが、そんなことは気にせず、夢に向かって突き進むのが猪木の真骨頂だ。

 

 

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■1990.01.25  蝶野正洋

「墓に足を突っ込む前に首をもらっとかないと」

 1990年2月10日の東京ドーム大会のに向けて抱負を語る二人。

 この時期、反目し合っている設定のこの二人。共闘すること自体がエポックだった。そして橋本がインタビューに答えて

橋本)俺らがね、この時代の騎手だからね、コレは目をつぶってイザコザを我慢してね、次の闘いに向けていかなきゃいけないから、コレはもう名タッグとして残せるように頑張ります。

 カッコいいことを言おうとする橋本、出てきた言葉はカミカミ。橋本のワンショットしか映っていないが、蝶野は画面の外で絶対に笑っているはず!

蝶野)向こうは国会議員と社長がタッグ組んでね、権力で闘ってくるのかもしれないけど、そんなもん関係ないですから、俺ら若い力で潰します。

蝶野)向こうはもしかしたらドームで終わっちゃうかもしれないから、墓に足を突っ込む前に首をもらっとかないと

■リング上でやり合うも結束を固める二人
WP1990
テレビ朝日「ワールドプロレスリング」放送キャプチャ

 ドーム出撃の前にすでに「名コンビ」です。

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■1990.02.10 アントニオ猪木

「出る前に負けることを考えるバカがいるかよ!出てけコラ!」

 東京ドームでの「アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋」戦を前に、控え室でインタビュアーの佐々木アナを一喝して張り手。

 緊張感みなぎる控え室のシーンだが、多くのプロレファンやタレントのネタ、CMなどでもオマージュされる名場面となっている。
 坂口選手は笑いをこらえているようにも見える。

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■1990.02.10 橋本真也

「時は来た!それだけだ」

 東京ドームでの「アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋」戦を前に控え室でのインタビュー。直前に猪木&坂口組の控え室の映像をモニターで見て「インタビューでも負けられない」と考えた橋本&蝶野組は、橋本が締めコメントを引き受けた。

 横にいた蝶野はカメラに写った瞬間、拳を口に当て咳払いしているが、実は笑いを噛み殺していることがファンにバレてしまった。

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■1990.03.15 坂口征二

「プロレス生活23年の間において何も思い残すことはありません」

 1990年3月15日、久留米市体育館で行われた坂口征二引退試合「坂口征二&木村健悟vsスコット・ホール&マイク・カーシュナー」。

 「こうして郷土のみなさんの暖かいご声援の中で最後のファイトを遂げたと言うことは、プロレス生活23年の間において何も思い残すことはありません。本当にどうもありがとうございました。今後私に与えられた宿命は、現役時代よりももっともっと厳しい試練の道と思いますけれど、今日来ています藤波、長州以下全員、あとは頑張ってくれると思います。私はだだ彼らが頑張れるような土俵を作るのが私の宿命だと思っております。今後ともどうぞ新日本プロレスをよろしくお願いします。本当に今日はありがとうございました」

 坂口征二ほどの名選手ならもっと派手に引退試合を行っても良さそうだが、そうしないところがが坂口の人柄か。今後の社長業への決意表明を語っているが、その言葉通りに90年代の新日本プロレスを繁栄に導いた。

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■1990.05.14 ザ・グレート・カブキ

「何してんの?、何してんの?」

 1990年5月14日「スーパーパワーシリーズ」開幕戦(東京体育館)タイガーマスク&川田利明vs.谷津嘉章&サムソン冬木の試合中の出来事。

カブキ)何してんの?
若林)おっとー
カブキ)何してんの?
若林)おっとー、おー、おーおー
カブキ)何してる、何してる
若林)マスクに手を、あーあー、マスクを脱いだー、タイガーマスク、マスクを脱いだー、ミサワーとなって今、猛然と打っていったー

 若林アナは、のちに「マスクを脱ぐなんて、事前に聞いていませんでしたし想定していませんでした。私にとって、完全なハプニングでしたね」と証言している。この時の解説の竹内宏介さんは、特に何も言わず。事前に聞いていた?

 放送席ゲストのザ・グレート・カブキが「何しての?」と何度も言ったのが印象的だが、よく聞いてみると、ちゃんと「何してるの?」と言っている。しかしファンの間では、「何してんの?」、あるいは「何やってんの?」という言葉で記憶されてしまっている。
 そのほうが、カブキっぽいので、間違った記憶でもOK

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■1990.07.22 蝶野正洋

(アニマル)「Road Warriors ICHIBAN」
(蝶野)「新日本で俺らが一番だ」

 月寒グリーンドームでのロード・ウォリーアーズとのIWGPタッグ防衛戦を前に控え室での両チームインタビュー。

(ロード・ウォリーアーズ)「Let me tell you something, Japan.・・・・・All Japan Prowrestling, we beat everybody there. Now we come New Japan Prowrestling. Road Warriors ICHIBAN. Everybody from Japan go down!」

(蝶野正洋)「試合前に何もしゃべることねえや。だだ言っとくけど、オラ、俺らが三つカウント入れるとき、ちゃんとカメラ撮っとけよ、オラ。俺らがチャンピオンだ、ここは新日本だぞ、オラ。新日本で俺らが一番だ、オラ。よく聞いとけ、オラ!」

名言集

 どこかで見たことのある風景。これは、2.10東京ドーム、猪木&坂口vs橋本&蝶野の控え室インタビューの再現ではないか。蝶野はこの時も威勢良く悪態をついたが、どう見ても話し終わった後、笑いがこらえ切れず横を向いてしまっている。もしかしたら「思い出し笑い」か?

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■1990年 ジャイアント馬場

「明るく楽しく、激しいプロレス」

 新団体SWSの発足で存亡の危機に立たされた全日本プロレスが打ち出したキャッチフレーズ。ジャイアント馬場のプロレス観を端的に表している。

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■1990.11.27 長州 力

「山本、Uはお前なんだよ」

 1990年11月27日発行の週刊プロレス、長州力のインタビュー記事。聞き手は山本編集長。

 長州)なぜ、オレの撃った弾丸(たま)がUに届かないのか、ある時、その理由に気が付いた。お前がUの前にバリアーを築いていたからだ。届かないはずだよな。この意味は大きいぞ。山本、Uはお前なんだよ。あれはお前が作ったんだよ。原子爆弾(核兵器)の原理を考え出した科学者と同じだ。Uの原理を考え、そのUを宣伝したのは山本、お前なんだ

 山本)・・・・・・

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■1991.01.07 前田日明

「出会ったときもキレイに出会ったんだから、別れる時にもキレイに別れようぜ」

 1991年1月7日、フロントと分裂したUWFが再出発するに当って、前田日明の自宅で会合がもたれた。その場で前田は「俺を信用して欲しい」と語り、選手一人一人に意見を求めた。そして一人ずつ答えることに。最初に指されたのは宮戸優光だった。いくらかのやりとりがあった後に前田日明が宮戸に言った言葉(宮戸優光談)「出会ったときもキレイに会ったんだから、別れる時にもキレイに別れようぜ」。そして「帰っていいよ」と言われた宮戸は、この言葉を最後に前田日明と決別することになった。

 田村潔司のブログによると、同じようなやりとりでこの後、一人、二人、三人と前田日明の自宅を出て行ったという。田村は悲しみと絶望感だけが残る最後だったと語っている。

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■1991.04.01 北尾光司

「この八百長野郎!」

 SWSのワールド記念ホール大会でジョン・テンタと対戦して反則負けとなった北尾が退場時にリング下からテンタに言い放った言葉。試合は北尾が一方的にセメントを仕掛けたようにも見えるが、テンタも引いていない。北尾の方から早く試合を終えようとするかのように、レフリーに暴行を働いた。相撲時代の格、プロレス転向後の格の逆転で互いに相容れることができなかったのか。

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■1993.04.06 アントニオ猪木

「おーい!、出てこーいっ!」

 1993.04.06両国国技館「マグニチュードX」と銘打たれた大会。リングに登場したアントニオ猪木は選手「X」を呼び入れた。花道から登場したのは、4年振りに新日本プロレスのリングに立つ藤原喜明。

 「おーい!、出てこーいっ!」は、後の高田延彦の「出てこいやー!」として受け継がれている。これもまた猪木の遺伝子。

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■1993.04.06 藤原喜明

「猪木さんに命預けます」

 1993.04.06両国国技館「マグニチュードX」と銘打たれた大会。リングに登場したアントニオ猪木は選手「X」を呼び入れた。花道から登場したのは、4年振りに新日本プロレスのリングに立つ藤原喜明。

 「猪木さんに命預けます。5月3日福岡ドーム出させていただきます。よろしくお願いを申し上げます」

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■1994.04.04 藤波辰爾

「甘い!!」

 広島グリーンアリーナでの橋本真也戦。藤波はボロ雑巾のように痛めつけられたが一瞬の逆転技で勝利。IWGP王座を奪取した。試合後の控え室で。

 「彼が納得いかないと言う前に、甘い!!、詰めが。自分の蹴り、あまりそういうものに頼りすぎる。相手が本当に死んでしまえば、その蹴りも生きてくるだろうけれども、相手がちょっとでも息がある限りは、最後のトドメを刺さないと、俺はもう立てないんだから。でも死んではいない。甘い!!

 ちなみに橋本は、「俺はあんなもんで妥協しないぞ、コラ。なにがトップの壁だ、ばかやろう。再戦だ、再戦。もう絶対引かないぞ、俺は。今度は立てなくしてやるぞ。ノックアウトしかねぇからな、次は!」

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■1994年 安生洋二

「200%勝てる」

 Uインターの安生がヒクソン・グレイシーとの対戦についてマスコミに語った言葉。このあとグレイシー道場に道場破りをしかけ返り討ちにあった。

 その後、安生は「200%」を自分のキャッチフレーズとして使った。ころんでもただでは起きない、マイナスのエネルギーもプラスに変えてしまう、これもプロレス。

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■1994.10.30 平田淳嗣

「しょっぱい試合ですみませーん」

 両国国技館の「SGタッグリーグ戦」の決勝で蝶野と仲間割れし、マスクもはがされてしまったスーパー・ストロングマシーン。試合後に平田淳嗣として発した言葉。マスクを脱ぐきっかけとなる試合でインパクトを残さなければならない大切な場面なのにスベってしまった。

 しかしこれは蝶野が仲間割れにより途中で試合放棄して退場したこと、それによりふがいない結果になってしまったことなどを含めての発言で、平田のファンに誠実さが表れている。

 20年後にDVDブックのタイトルにもなった言葉なので、それなりにインパクトがあったとも言える?

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■1995.01.04 橋本真也

「俺がチャンピオンの橋本だ。誰でもかかってこい」

 1.4東京ドームで佐々木健介を下してIWGPを防衛した橋本真也。

 来場していたアントニオ猪木からリング上で固い握手による祝福を受けた橋本が、猪木からの闘魂伝承を意識して叫んだ。「俺がチャンピオンの橋本だ。誰でもかかってこい」

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■1995.05.06 佐山聡

「新日本で試合を・・・いや、芝居をしてきました」

 5月1日の福岡ドーム大会で、佐山聡は獣神サンダーライガーとエキシビションマッチを行った。そして5月6日に後楽園ホールで開催されたプロ修斗のリング上からの挨拶した言葉。

 この頃、佐山はプロレスにも理解を示しており、エキシビションを「芝居」とたとえたジョークで、決して悪意のある発言では無いと思われる。自らが提唱する格闘技との整合性をとるための照れ隠しだが、プロレスファンからは反感を買ってしまった。

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■1995.08.18 田村潔司

「高田さん、僕と真剣勝負をしてください」

 東京ベイNKホール大会でゲーリー・オブライトと対戦した田村潔司は試合に勝利した後、リング上からマイクをもってアピールした発言。Uインターの方向性に異を唱えた田村はその後、リングスへ移籍した。

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■1995.09.25 ターザン山本

「もしそこに一人でも見物人が存在したら、これは“プロレス”になる」

 1995年09月25日発売「ターザン山本が解説する日本プロレス全史」(CD-ROMブック)の中で、ターザン山本氏が語っている。

ターザン山本)
 「プロレス」と「格闘技」という考え方があるよね。それをもっと論理的にわかりやすく説明しないといけないんだけれども、格闘技という言葉を使うときに純粋に「格闘技」と言ったら見物人がいない世界のことを言うんだよね。つまり、やる人たちだけの世界というのを「格闘技」という。もしそこに一人でも見物人が存在したら、これは「プロレス」になる。

 現状では全ての闘いはどんなジャンルでも観客という見物人がいるんだよね。ということはもうプロレス的構造になっている。そうするとお客さんを楽しませるため、満足させるため、ということになる。

 「プロ」「アマ」をハッキリさせる基準、それを確定させる、測定することはできないんですよ。それをするのはお客さんなんだよね。体を鍛えていないとか、体ができていない、技ができない、そういうことで断罪することはできないんです。そういうことも成立してもいいと割り切った上でプロレスラーは何をするかを考えなくてはならない。

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■1995.10.09 長州力

「キレちゃいないよ」

 東京ドームでの新日本プロレスvsUWFインターナショナルの全面対抗戦。安生とのシングルマッチに勝利したち長州へのインタビュー。「長州さん、キレたんですか」の問いに、

 「キレちゃいないよ」「差があるよ、安生もキレさせたくなかったんじゃないか。勇気無いな。でもキレさせない限りは、本質的にはキレさせない限りは(安生は俺に)勝てないな、多分。俺の勝負はそこからだから。ま、キレていいのか、悪いのかな」

 後に長州小力の「キレてないですよ」に受け継がれている名言。

 一方、「長州には210%勝てる」と豪語して負けてしまった安生は「謙虚な男に生まれ変わりますよ。謙虚is Best!」という名言を残してる。もちろん、その後も謙虚にはなっていない。

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■1996.05.05 アントニオ猪木

「俺が持つ特殊体質とは・・・恐怖を撃退する脳内麻薬の作用」

 それは移民時代の医者も薬も無いジャングルでの生活が、体の中の自然治癒力を高めたせいだと自分では思っている。

 ベータエンドルフィンは人間の脳内で作られる脳内麻薬の一種で、痛みを和らげたり、気分を高揚させたり、肉体の若さを維持する作用まで持っている。

 俺はいままで闘いや事業への挑戦のなかで味わった数々の挫折を生来の楽天性で全て自分にプラスの出来事と捉え直して乗り切ってきた。自分の生き方を肯定する前向きな発想こそが、脳内でベータエンドルフィンを代謝させる一番の方法。

 「闘魂戦記~激白 格闘家・猪木の真実」
   木村光ー著(1996年5月5日発行)より

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■1996.12.01 アントニオ猪木

「Any time, any place, anybody challenge me!」

 FIGHTING TV SAMURA!開局特番、猪木フェスティバルin代々木。メインイベントで海賊男を撃破したアントニオ猪木。

 エプロンサイドに駆け上がって対戦を迫ったウィリー・ウィリアムスに対して「いつなんどき、誰の挑戦でも受ける!」の英語バージョンで返答。「Any time, any place, anybody challenge me!」

 「プロレスvs極真空手」がテーマとなった壮絶な闘い、両者ドクターストップから約17年。「今度こそ完全決着か?」と煽る向きもあったが、ほとんどのファンは決着など期待していなかった。それよりも今の猪木と今のウィリーがどれだけの闘いを作れるか、そして一瞬でもお互いの凄みを引き出してくれることが願いだった。

名言集

■1996.12.01 アントニオ猪木

「何か色々噂があって。海賊は猪木じゃねえかとか」

 FIGHTING TV SAMURA!開局特番、猪木フェスティバルin代々木。メインイベントに海賊男の装束で入場したアントニオ猪木。対戦相手の海賊男を一蹴し、試合後はウィリー・ウィリアムスの1.4東京ドームでの対戦要求を受け入れた。控え室で記者のインタビューに応えて。

 (記者)今日海賊の仮面をかぶって入場されたのは、何か・・・・?

 (猪木)「別にどうってことは無いんですけど、何か色々噂があって。海賊は猪木じゃねえかとか、まあオレにも謎なんで。そのあといろんな海賊が出てきたから、どれが本物かわかんないけど、一回海賊をやってみたいなと思って」

名言集

 久々の海賊男との試合は決して派手な闘いでは無かったが、終わってみれば猪木の左耳から血が流れ落ちていた。海賊男は新日道場仕込みの激しい練習を重ねたことのある、アマレスもできそうな基本のしっかりした選手のようにうかがえる。

 ウィリーとのやりとりについて猪木は「まあ、相手からチャレンジされれば逃げるわけに行かないというか、正直言ってそんなにやりたいとは思わないけど、まあ、いまだにいろんな質問がある度に、ウィリー戦というのが出てきますのでね、まあ本気で、こっちもそれなりのことを、18年前の通りにとは行かないけど、彼がそれくらいの調子で出てくれれば、やり甲斐があるなと思う」

 「プロレスというモノが世界に向けてと言うか、特にアジアに向けて非常に注目されているんで、何か新しい形の、というかね、今までの流れはそれとして、こういういろんな形を試しながら、来年に向けてのステップというか、そういう方向性が見えてくればいいかなと」

 これが引退後に発足させた「世界格闘技連盟UFO」構想なのか。

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■1997.12.21 桜庭和志

「プロレスラーは本当は強いんです!」

 横浜アリーナで開催されたUFCヘビー級トーナメントで優勝した桜庭のマイク。10月に高田延彦がヒクソンに惨敗し「プロレスラーは総合では勝てない」という空気が漂う当時の状況での発言。プロレスファンの溜飲を下げた。

名言集

■1998.04.04 アントニオ猪木

この道を行けば、どうなるものか
 危ぶむなかれ

 危ぶめば道はなし
 踏み出せば
 その一足が道となり
 その一足が道となる
 迷わず行けよ
 行けばわかるさ
 ありがとーっ!」

 説明するまでもない、アントニオ猪木引退時の最後のメッセージ。出典は一休和尚の言葉。
 「その一足が道となり」は「その一足が道となる」の言い間違いだと思われるが、訂正したフレーズも含めて自分の言葉としてしまったという説あり。大舞台で間違えても決して焦ったりしない猪木。最後の「ありがとーっ!」も含めて、一連の名言としたい。

 この言葉の前にも貴重な前振り。
「人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめた時に年老いていくのだと思います」
 いつまでも心に留めたい言葉だ。

名言集

■1999.01.04 小川直也

「新日本プロレスのみなさま、目を覚ましてくださーい」

 東京ドームで対戦した橋本真也に対してセメントマッチをしかけた小川直也が、橋本をKOしたあと、リング上でマイクを持って観客に向かって発した言葉。

 当時小川が所属していたUFOとの対抗戦、セメントマッチの真相など、うやむやのまま抗争は立ち消えになった。

名言集

■1999.01.04 長州 力

「これがオマエのやり方か?」

 “暗黙のルール破りはあってはならない”---これが長州の持論であり、いつでもシュートマッチ辞さずの構えだった猪木との違い。リングサイドに着くとそのままの勢いでカメラマンを思い切り蹴り飛ばしてリングに上がった長州。コーナーポストに座った小川ににじり寄り、「これがオマエのやり方か?」(あるいは、「これがオマエのやりたいことか?」)と声をかける長州は何度も「下りろ、下りろ」と繰り返した。

 (週刊ファイト1999年1月14日号より)

名言集

■1999.01.04 橋本真也

「許さないぞ、アントニオ猪木」

 東京ドームで小川直也から一方的なセメント試合を仕掛けられ、無様な姿を晒してしまった橋本真也。橋本はあくまでプロレスを観客に見せたかった。その試合直後の怒りの会見。

 「なにがアントニオ猪木だ、コノヤロー、ホントに。けしかけて、けしかけて。もう小川の目、飛んでるやん。完全に飛んでるやん。絶対許さないよ」

 「オラ、後ろで焚きつけているやつ、誰か知らないけど、俺、許さないよ。遂に別れの時が来たよ、ホントに。許さないぞ、アントニオ猪木

 「誰か知らないけど」と一度は言葉を濁してみたものの怒りがおさまらず、「許さないぞ、アントニオ猪木」ときっぱり。「闘魂伝承から一転、遂にアントニオ猪木と決別することになった。アントニオ猪木も新日本プロレスの闘いにこの怒りを求めていた。

名言集

■1999.02.01 菊池 孝

「やっぱり全国区というのは、力道山であり、馬場であり、猪木」

 1999年2月1日に生放送されたサムライTV!の「G・馬場追悼番組」での菊池孝氏のコメント

 (第一報を聞いたときには)ビックリしたし信じられなかったですね。ボクはかなり楽観してましたから。また例の強度の便秘症かなぐらいに思ってましたから。本人もそう思ってたんじゃないかと思うんですけど。まだ信じられないです。

 いまだに(ジャイアント馬場の)知名度は全国区ですからね。だから全日本のポスターに必ずジャイアント馬場の写真と名前が入っているのは「自分が言うのもおかしいけど、他の会社とは違いますよ。コレはジャイアント馬場の会社ですから安心して見に来てください」と言うために出していると(ジャイアント馬場自身が)言ってましたからね。やっぱり全国区というのは、力道山であり、馬場であり、猪木で、それ以下はやっぱりちょっと落ちますから。

 珍しく菊池孝氏がアントニオ猪木を認めた発言。

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■1999.02.01 ザ・グレート・カブキ

「アメリカで“馬場さんの所だ”と言うと、扱いが全然違った」

 1999年2月1日に生放送されたサムライTV!の「G・馬場追悼番組」でのザ・グレート・カブキのコメント。

 「自分がアメリカでずーっと仕事をしているときに(関係者に)“お前はどこの会社だ?”と聞かれて“馬場さんの所だ”と言ったらと“ああそうか・・”と、やっぱり扱いが全然違いましたからね」

 「そういう面でカブキになれたのも馬場さんのおかげだし・・・あの・・・ね、やっぱり信じられないです」

 カブキさんだってちゃんと馬場さんに感謝してます。

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■1999.03.05 小島聡

「10倍だぞ10倍」

 1999年3月5日「HYPER BATTLE ’99」後楽園ホール大会

 天山・小島・ヒロ斎藤vs越中詩郎・佐々木健介・永田裕志戦後の小島聡の発言。

 「1+1は2じゃないぞ。オレたちは1+1で200だ。10倍だぞ10倍」。この計算式は「テンコジの定理」とも言われている。画像が雑誌『宝島』の読者投稿コーナー『VOW』に掲載されたことから、ネットで拡散した。

 これには発言をした小島聡本人がツイッターで画像を引用してツッコミを入れているので参照されたい。

 このような名言が動画で残っていないのは非常に惜しい。テレビ朝日のアーカイブ素材にも残っていないのだろうか。実際の動画は見つからないが、PS4「龍が如く6」の中で再現されている。

名言集
PS4「龍が如く6」より

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■1999.03.06 ジャンボ鶴田

「その言葉を信じ今日の決断となりました」

 1999年3月6日、日本武道館ジャンボ鶴田引退セレモニー。

 「全日本プロレスに就職します」と言って入ってきて、早いもので27年が経ちました。その間、いろんなことがありました。ですけど、ファンの皆様から多大なご声援をジャンボ鶴田にもらいまして、非常に・・・ありがとうございました。

 約6年前に肝・・・病気をしまして、それ以来、慶応大学、桐蔭横浜大学、中央大学にて教鞭をとってまいりましたけど、今回、大学交流システムのプロフェッサーとして3月中に米国のポートランド州立大学教授に就任することが決まりました。この話は生前、ジャイアント馬場選手ともゆっくり話をしましたが、「チャンスだから是非行ってこい」と、そういう風に言われました。

 ちょうど時期的にですね、ジャイアント馬場選手のご逝去ということになり、延期とか中止とかを考えましたが、馬場選手がいつも私に言ってくれたみたいに、「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」と、その言葉を信じ今日の決断となりました。長い間本当にジャンボ鶴田、全日本プロレスにご声援くださいまして、ファンの皆様、ありがとうございました。

 私はここに引退はしますけども、全日本プロレスには有望な若手がたくさんおります。三沢川田小橋田上、いい選手がいっぱいいます。ですからファンの皆様、是非これからも全日本プロレスに熱きご支援とご指導を、切に、切によろしくお願い申し上げます。今日はどうもありがとうございました。

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■1999.04.10(※)Puff Daddy

「Fuck you all niggaz wanna do!」
(この野郎、一体何がやりてえんだ!)

 蝶野正洋の入場テーマ曲、冒頭の台詞。Puff Daddyの「No Way Out(Intro)」からイントロがスタートし、同じくPuff Daddyの「Victory」の歌詞「Fuck you all niggaz wanna do!」で一気に盛り上がる。そのあと、Royal Huntの「MARTIAL ARTS」につながる。

 3曲をMIXした蝶野の入場テーマ曲ば「Team 2000 Crash」とか、「AT(ARISTRIST) CRASH」などと呼ばれている。

 Damn. I would have never thought it ever would have been like this. (クソったれ、こんなになるとは思ってなかった)

 Fuck you all niggaz wanna do!
(この野郎、一体何がやりてえんだ!)

 (※)1998年リリースのPuff Daddy「Victory」だが、蝶野が入場曲にこのMIX曲を使い始めのが1999年以降。掲載したキャプチャ映像が、1999年4月10日、東京ドーム 蝶野vs大仁田なので、とりあえず、この日の日付で。

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■1960-70年代

■1980年代

■1990年代

■2000年代

■2010年代-

名言集

■2000.01.04 アントニオ猪木

「道はどんなに険しくても、笑いながら歩こうぜ!」

 正月恒例の1.4東京ドームのリング上からの挨拶の中での名言。のちに最後の闘魂伝承者として藤田和之もこの言葉を使っている。

 この日は気合いが入りすぎてしまい、闘魂棒が真っ二つに折れてしまった。この頃、猪木はリング上で挨拶をするたびに教訓めいた名言を語っていた。

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■2000.06.30 長州力

「またぐな、またぐなよ、コラ!」

 新日本プロレス海老名大会の開場前にリングで練習する長州力に来場した大仁田厚が詰め寄った。オレのリングに勝手に入ってくるな、という長州の言葉。延々と「またぐなよ!」が続く迷言として語り継がれている。このやりとりの中でもう一つ特筆すべき会話が残されている。

 大仁田「長州さんよ!」
 長州 「まだ“さん”付けで呼んでくれるのかよ」

 緊張したにらみ合いの中でも、礼儀とユーモアを忘れない大仁田と長州力に好感。

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■2001.01.04 藤波社長

「我々は殺し合いをしてるんじゃない、◎○※△□+◎■☆α・・・・」

 東京ドームでの橋本と長州の遺恨凄惨マッチ。前年に新日本プロレスを解雇された橋本は再び新日本のリングに上がることになった。対戦相手は、長州力。長州が新日本プロレスへUターンした時から続いている因縁の相手。試合は延々と殴り合い、蹴り合いが続く終わりの無い展開となった。そして放送席で解説を行っていた藤波辰爾(社長)が「これ以上続けたらどちらかが死ぬしかない」と思い、社長権限で試合をストップした。ファンの間で語り継がれる「ドラゴン・ストップ」。

 「◎○※△□+◎■☆α・・・・」の部分は一説によれば、「今この2人を失うわけにはいかない。わかって下さい。下がれ、下がれ2人とも!」と言っているらしい。

名言集

■2001.03.17 佐々木健介

「正直、スマンかった」

 愛知県体育館、佐々木健介vsスコット・ノートン。IWGPを防衛して藤田和之と闘うと思われた佐々木だったが、残念ながら敗退して王座転落。リング上でマイクを持った健介が藤田に向かって発した言葉。

 アドリブで上手い言葉が見つからず、思わず出てしまった一言だと思われるが、ファンの間でネタにされてしまった。

名言集

■2001.11.02 木戸修

「兄の意志を継いでプロレスラーになり、33年間現役生活ができ感無量です」

 2001年11月2日横浜文化体育館、木戸修引退

 「昭和43年、日本プロレスに入門。昭和47年、新日本プロレス旗揚げ戦以来、33年間の現役生活を引退します。33年間振り返りますと、いろいろなことがありましたが、兄が15歳でプロレスラーになり、練習中の事故により16歳で怪我をし、闘病生活をし、兄の意志を継いでプロレスラーになり、33年間現役生活ができ感無量です。第二の人生は新日本プロレスに残り、若手育成に頑張りたいと思います。ファンの皆様、関係者の皆様長い間ご支援ご声援いただき、本当にありがとうございました。これからも新日本をよろしくお願い申し上げます。どうもありがとうございました。」

 この興行では、アントニオ猪木が入場口のキップのもぎりを受け持ち、木戸の引退に花を添えた。猪木は報道陣の質問に「これが本当の木戸番ですよ」と得意のアントン・ジョークで笑った。

名言集

■2002.02.01 蝶野正洋

「このリング、我々には上に一人神がいる」

 2002年2月1日 北海道立総合体育センター。第6試合 藤波・長州・越中vs蝶野・天山・後藤の6人タッグマッチ。蝶野はチーム2000の総帥としてケンカキックから越中をフォールした。そしてマイクを持ち、

 「新日本、よーく聞けオラ。俺に納得できる説明できる奴がいるのかオラ。オイ、お前らに教えといてやる。新日本プロレス、このリング、我々には上に一人神がいる。ミスター猪木!!」

 そして猪木登場。この日アントニオ猪木は、蝶野選手の「リング上で話がしたい」との要請に応えて札幌の会場にやってきた。会場入りした猪木は報道陣の質問に、

 「あんまり新日本の会場に行きたくなくてさ、最近は。今日はなんとなく気分がウキウキしてるんで。蝶野と対決なのか、どういう話になるかね、一つそういう意味では楽しみというか、かなり期待してます」と話していた。そしてファンに語り継がれる「猪木問答」が始まった。

名言集

■2002.02.01 アントニオ猪木

「そうか、オメエはそれでいいや」

 北海道立総合体育センターでリングに登場したアントニオ猪木はリング上の選手一人一人に発言を求めた。のちに「猪木問答」として語り継がれる名(迷)シーン。マイクを向けられた中西学は「怒ってますよ」。猪木の「誰にだ!」の問いに、「全日に行った武藤です」と返答。

 そしてアントニオ猪木に「そうか、オメエはそれでいいや」と受け流されてしまう。猪木が気の利いた返事を思いつかなかっただけなのに、不憫な中西学。

名言集

■2002.02.01 鈴木健想

「明るい未来が見えません!」

 北海道立総合体育センターでリングに登場したアントニオ猪木はリング上の選手一人一人に発言を求めた。のちに「猪木問答」として語り継がれる名(迷)シーン。マイクを向けられた鈴木健想のこの言葉に猪木は「見つけろ、テメェで!」と返答。

 アントニオ猪木の方針と選手のやりたいことがずれてしまっている新日本プロレスの当時の状況が感じ取れる。

 ちなみに鈴木健想は自分の進む道を自分で決めて新日本プロレスを退団、のちにWWEのリングでブレイクした。猪木の返答が後押しに?

名言集

■2002.05.02 倍賞美津子

「おめでたい席なので、来てもいいかなと思って」

 新日本プロレス30周年記念興行、2002.5.2東京ドーム「闘魂記念日」の試合開始前のセレモニー。ビル・ロビンソン、タイガー・ジェット・シンなど懐かしい顔が揃ったセレモニーで最後に入場してきたのは倍賞美津子さん。

 

(倍賞美津子)「えーとー、こんにちは、みなさん、こんにちは。リングの上に上ったのはですね、何十年ぶりかだと思うんですけども、なかなか良いですね、この上は。
(猪木に向かって)いつも良いとこに上ってたんですねぇ。今日は新日本プロレスの30周年記念と言いますので、あのー、最初立ち上げたと時に一緒にやってましたもので、是非そういうおめでたい席なら来てもいいなぁ、なんて気持ちで来ました。これからも新日本プロレスをよろしくお願い致しまーす。フフフフッ。」

名言集

 来場を知らされていなかった猪木にとっては“ビッグサプライズ”。

(猪木)「えー、いつも『ハプニングを起こせ』ということで、『人生はハプニング』。そういうことで今日はオレがハプニングを起こされてしまいましたが、ちょっと戸惑っておりますが、じゃあ、いつも以上の元気を出しまして、行くぞー、イーチ、ニーイ、サン、ダーーッ!!」

 

 この夜、猪木は会食の席で「(美津子さんに)宣伝文句をテープに吹き込んでもらい、それを宣伝カーで流しながら東京の街を走るだけのつもりだったに、コネもない店に飛び込んで入場券を売ってくれた」と涙ぐんで話していた。

 (記事 週刊ファイト 2002.5.16号より)

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■2002.08.11 永田裕志

「蝶野、お前は闘わないのか。天山、中西、こいつらと闘わないのか、お前らは」

 2002年8月11日 両国国技館、G1クライマックス決勝蝶野正洋vs高山善廣の終了後。総合格闘技経験者の“外敵”に振り回わされている新日本プロレスの現状に対して永田裕志が立ち上がった。15年前の世代闘争を彷彿とさせる場面を作り出した永田さん。

 この2年後には長州に「天下を取りそこねた男」と言われてしまうが・・・。勢いよく切り出したものの、最終的にはこの場でも主役を取りそこねた印象。

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■2002.08.11 蝶野正洋

「俺だけ撮ってりゃいいんだ。アイ・アム・チョーノ・ガッデム!」

 永田裕志のマイクを受け取って、「おい、藤田、安田、高山。お前らな、このリングは年間130~150毎日戦い抜いた人間のいる戦場だ、オラ。テメーらみたいにな、月に1回や2回、テメーらのは闘いじゃねえんだ。(大歓声)お前らやりてぇんなら、このリングに上がってこい」。

 「あと一点、ガッデム、テメエ、エエ?。俺だけ撮ってりゃいいんだ、オラ、エエ?。アイ・アム・チョーノ・ガッデム!

 カッコ良く立ち上がったはずなのに結局最後は全部、蝶野に持って行かれた永田さんなのでした。

名言集

■2002.10.10 長州力

「俺が業界のど真ん中を突っ走ってやる」

 新日本プロレスを飛び出した長州力が翌年の新団体WJ旗揚げを前に語った言葉。数々の見込み外れがあり、結局ど真ん中を行くことはできなかった。

 一応、日付は週刊ゴングの発行の日付。

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■2003.04.18 木村健悟

「私の家内、木村洋子に感謝します」

 2003年4月18日後楽園ホール、木村健悟引退

 「私は、レスリングを始めて31年間、感謝をする、総ての人に感謝をしておりますけども。その中でも、この新日本プロレスのリングで闘いを教えてくれた、闘魂を教えてくれたアントニオ猪木さんに感謝いたします。そして日本プロレスから新日本プロレスへと移って参りましたけども、右も左も分からなく、ガムシャラについて行った坂口征二さんにも感謝申し上げます。そして自分がこのレスラーとしてここまでやっててこれたのも、ライバルを持つと言うこと、これは大変大事なことだと思ってます。藤波辰爾さんに感謝します。後もうひとり、自分と所帯を持ち27年間一緒にやってまいりました、日向に陰にいろいろ自分のことを一生懸命、誠心誠意尽くしてくれました、自分の気持ちが、プロレスから離れないように、自分の夢を叶えるために、一生懸命支えてくれた私の家内、木村洋子に感謝します。ありがとうございます。本当はここで泣くとこなんでしょうけども、グッと涙を堪えて私はこのリングを去りますけども、これからはリングの下からこの新日本プロレスを見続け、そして支えていけたらいいなと思っております。本当に今日はありがとうございました。ありがとうございました」

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■2003.11.18 長州力

「何がやりたいんだ、コラ!飾りやがって、コラ!」

 長州力率いるWJと橋本真也率いるZERO-ONEとの抗争の始まり。ZERO-ONEの道場へ単身乗り込んだ長州力が橋本に発した言葉。これに対して

 橋本「なにがコラじゃコラ!」
 長州「何コラ! タココラ!」

 その後も双方の「コラ!」の応酬が続き、「コラコラ問答」として有名になった。その時の模様は、偶然(?)にもSAMURAIニュースのカメラが回っており、CSチャンネルでも放送されている。
 なお、「飾る」とは「東スポの紙面を飾る」という意味らしい。そして次なる名言も。

 長州「お前、今言ったなコラ!」
 橋本「おう言ったぞ!」
 長州「吐いた言葉飲み込むなよお前!」
 橋本「それはおまえもじゃコラ!舐めとんなよこの野郎!」

 

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■2004.03.28 中邑真輔

「一番凄ゲェのはプロレスなんだよ!」

 両国国技館でIWGPチャンピオンを奪取したボブ・サップにリング上で挑戦を表明した中邑真輔の言葉。その後、中邑真輔の決め台詞になった。

 「凄ゲェ」と「一番強エェ」の二説ある。ビデオを見返すと、「一番強エェ」のように聞こえるが・・・。

 「おい、おいボブ。K-1とかさ総合とかさ、よくわかんねぇんだけどさ、調子のってんじゃねぇぞ。凄ゲェのはプロレスなんだよ。5月3日、俺が挑戦してやっから首洗って待っとけ」

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■2004.04.02 新間寿

「総合格闘技は“恋”、プロレスは“愛”」

 2004年にサムライTV(サムライティービー)で放送された「浅草キッドの海賊男」。この日の放送のゲストは新間寿氏。当時一大ブームを巻き起こしていた総合格闘技イベント「プライド」について語った。(日付は収録日)

 「プライドは恋ですよ。プロレスは愛ですよ」、恋はすべてを奪い取るが、愛は与えるものという新間寿氏の考え。そして当時のプライド統括本部長・高田延彦へのメッセージ

 

「籠の中の鳥、鳴けば空飛ぶ鳥の集まるが如し
 空飛ぶ鳥の集まれば、籠の鳥も出でんとするが如し
 口に“闘魂”を呼び奉れば
 我が身の“闘魂”も呼ばれて必ず現れ賜う
 忘れるなかれ“闘魂”を

 

プロレスから離れて20年、それでも持ち続けている新間寿氏の「プロレス愛」

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■2004.10.09 長州力

「俺はこの新日本プロレスのリングのど真ん中に立ってんだぞ」

 2度に渡る新日本プロレスからの離脱、WJ旗揚げ、ZERO-ONEとの抗争を経て、三度(みたび)長州力が新日本プロレスに戻ってきた。

 「テメーら、この状態が今何を求めているか分かるか。俺はこの新日本プロレスのリングのど真ん中に立ってんだぞ、今」

 「永田、よくお前だけ上がってきたな。天下を取りそこねた男がよく上がってきた。ひとつだけ言っておくよ。中にいる人間が信頼されなくて、外にいた人間がこのど真ん中に立ったと言うことは、わかるか。わかるか。俺を上げる人間が罪を背負うのか、いままでこういう状態になったテメェらが罪を背負うのか。最後にひとつだけ言ってやろうか。なぁ、もし見たこともねぇ、来たこともねぇ、次にこのど真ん中に立つときは、俺のパワーホール全開でこのど真ん中に立ってやる。わかったか」

 このあと永田が長州に張り手の連打、長州も張り手で返して乱闘に。

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■2007.09.18 長州力

「山本かぁ、早く首吊って死んでくれないかな(笑)」

 2007年9月18日に発売された「ターザン山本!の活字プロレス血風録!!」 (三才ムック VOL. 170) に掲載された長州力のインタビュー。

 前田日明と和解してもターザン山本とだけは絶対に和解しないという長州力。その長州力が「ターザン山本!の活字プロレス血風録!!」の刊行に当たり、三才ムック編集担当のインタビューに応え、かつて最も憎んだ男・ターザン山本について心境を語っている。

 「もうアイツは忘れ去った方がいいよ・・・」

 「まあ、俺個人としては触りたくもないし、思い出したくもないな」

 「山本かぁ、早く首吊って死んでくれないかな(笑)」

写真:「ターザン山本!の活字プロレス血風録!!」より

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■2008.11.24 アントニオ猪木

「来年は、母さんの年にしよう」

 2008年秋、リーマンショックで世界経済は景気後退局面へ。この日の名古屋レインボーホール「GENOME-7-」大会でリングに登場した猪木は、リング上に「大福」の山(ケーキ)を持ち込んで、餅まきならぬ、「大福捲き」でファンサービスを行った。昭和の新日本プロレスの定番、サインボール投げを思い起こさせた。ちなみに前回の両国大会では、「麩」でケーキを作り、リング上でぶっ壊した。「麩ケーキ(不景気)をぶっつぶせ!」ということで。

 そしてこの日は来年への決意、「来年は、母さんの年にしよう」。今年は父さん(倒産)が多すぎたので、ということらしい。

 この大会では、10カラットのダイヤモンドの原石を披露。IGFのベルト新設も宣言された。不景気な時こそど派手にぶち上げる、猪木流。

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■2012.12.31 藤田和之

「テメエの駒じゃねえんだよ、コノヤロー!」

 2012年12月31日 両国国技館「INOKI BOM-BA-YE 2012」小川直也vs藤田和之

 試合はセメントを仕掛けるような態度でプロレスの試合をしようとしない小川に藤田がブチ切れ、倒れた小川の後頭部に強烈なキックを入れた後、バンテージを巻いた素手で顔面を殴り続けてレフリーストップ勝ち

 不完全燃焼の試合結果で勝っても納得のいかない藤田が猪木に向かって放った言葉。

 「会長、アンタがまた仕掛けたんだろう?コレがおもしれえのか?、ええっ?、テメエの駒じゃねえんだよコノヤロー!」

 既に神格化されている猪木氏にこれだけの暴言を吐けるのは“野獣”藤田だけ?。完全にキレている藤田だった。

 ビデオを見返すと小川はプロレスの範疇でセメントを仕掛けているように見える。藤田がプロレスとして成立させる技量を持っていたら、プロレスファンに語り継がれる試合にもなれただろうと思える“惜しい”試合。どちらかと言えば“ズンドコ”側に分類される結果になってしまった。

 後日猪木は「わかってねえな」とコメント。闘魂伝承を謳ってみても、やはり“闘魂・猪木プロレス”は一代限りなのだ。

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■2020.06.19 アントニオ猪木

「安定した道ばかり選んでいると、エネルギーが湧いてこなくなる」

 アントニオ猪木のツイッターより。

 「おれが若い人に言っているのは安定した道ばかり選んでいると、エネルギーが湧いてこなくなるということ。

 皆さん気づいていないだけで、人間が追い詰められた時に出すエネルギーは、凄いものがありますからね。」

 この言葉を聞けば、まだ頑張ろうと思えてくる。

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■2020.06.23 アントニオ猪木

「あくまでもテメエの生き方をどれだけ主張するか」

 2020年に入ってyoutubeチャンネルを開設したアントニオ猪木。

 「世間には、よく『私はファンのために頑張ります』なんていうやつがいるけど、そんなの嘘だね。ファンのためにだけ頑張ってたらダメになっちまうよ。あくまでもテメエの生き方をどれだけ主張するか。そしていかにファンをこっちに向けさすか」

 だから多くの人が魅了されるんですね。

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■2020.08.24 アントニオ猪木

「もともとありもしない『限界』」

 アントニオ猪木氏のtwitterでのメッセージ。

 もともとありもしない「限界」にこだわると己れの力に疑問をもつようになり、しくじったり、できなかったとき「ああ、これが俺の限界だ、もうダメだ」とギブアップしてしまう。

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■2020.09.28 アントニオ猪木

「騙した側には騙した側なりの人生があるのだから」

 アントニオ猪木氏のtwitterでのつぶやき。

私は人をすぐ信用するし好きになる。
体の大きな人と言うのは概して何事に対してもおおらかである。
その反面厳しさに欠ける面もある。
確かに人を信用したために騙されたり、
痛い目にあったりした事は何度もある。
しかしそんなことはどうだっていい。

騙した側には騙した側なりの人生があるのだから。

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■2021.02.06 古舘伊知郎

「講釈師、見て来たように嘘を言い」

 Youtube前田日明チャンネルにゲスト出演した古舘伊知郎。

 古舘アナは新日本プロレスの1987年1月23日の熊本・水俣大会終了後の熊本・人吉旅館破壊事件について数多くのテレビ出演で語っているのだが・・・。事件が起きた宴会に古舘自身も同席していたとしてその日の出来事を「二階から続く階段が“ゲロの滝”」など面白おかしく伝えている。しかし最近冷静になってよく考えてみると自分(古舘伊知郎)はその場には居なかったことに気が付いたという。

 そして自分を“講談師”に見立てて一言、「講釈師、見てきたように嘘を言い」。人に物事を伝える職業柄、性(サガ)のようなもの、だからこそ一流の語り手だと思います。

 今となって思い返せば、「俺はお前のかませ犬じゃ無い」「俺の人生にも一度ぐらい・・・」も古舘氏の脳内で作り上げられた言葉なのかと・・・。

 ※熊本・人吉旅館破壊事件について調べてみたら、しっかりとまとめたサイト「【実録】新日本プロレス熊本旅館破壊事件の真実」がありましたので、そちらをご覧ください。けっこう楽しめます。

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 まとめていくうちに、どんどん方向性を見失っていった「名言集」ですが、中邑真輔の言葉で締めることができてホッとしています。

 (追記:その後名言を追加していって、またまた方向性を見失っていますが)

 各選手の引退のコメントも胸にしみます。

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