■1983年6月4日付 東京スポーツ1面
■1983年6月4日付 東京スポーツ2面
1983年6月2日、第1回IWGP第28戦(最終戦)は蔵前国技館。
「IWGP決勝戦、猪木壮絶KO負け」
翌日は朝から駅売りのスポーツ紙の見出しを見ないように通り過ぎて、夜8時のワールドプロレスリングの放送まで結果を知らないように努力。しかし、これだけの「事件」となってしまうと一般紙にも扱われ、友人からも話しかけられてしまいます。いくらインターネット、SNSが無い時代でも夜まで結果を知らずに過ごすことは不可能でした。
ただ結果を聞かされても意味がわかりませんでした。プロレスの常識から考えて、この大会で猪木が優勝しないことなどあり得ないと思っていたので、「そんなバカな。またみんな猪木の仕掛けに踊らされているだけだろう。今夜テレビを見ればわかるさ」などと、結構楽観的に思っていました。
まさか、その答えが「惨敗」とは・・・。
■救急車に運ばれる猪木
(1983年6月4日付 東京スポーツ)
■ミスター高橋の話
(1983年6月4日付 東京スポーツ)
■ハルク・ホーガンの話
(1983年6月4日付 東京スポーツ)
本当は、大変なことをしてしまったと本気で眠れない夜を過ごしたのでは?。「このあと仕事が無くなっちゃう、WWFも使ってくれないんじゃないか・・・どうしよう」と。
「オレは試合中にイノキが、“ハードに来い、もっとハードに!!”って言うから、その通りにしただけなのに、坂口さんには怒られるし、新間さんからも怒られるし、やってられないよ」って気持ちだったと思います。
■病院内、夜の動き
(1983年6月4日付 東京スポーツ)
「猪木さん、もういいですよ。全部わかりますよ、私たちはプロですから」と看護婦さんに言われたとか、言われないとか。
でも、富家孝リングドクターもプロです。
■病院内、一夜明けて
(1983年6月4日付 東京スポーツ)
珍しく、発売日当日朝の動きも記事になっていました。医師も看護婦さんもちゃんと“猪木さん”の様子を話してくれています。このあと“完全に毛布にくるまれた姿”で退院、そして別の病院に再入院しました。
■この日の試合結果
(1983年6月4日付 東京スポーツ)
木村健吾&前田明組もタッグも興味深いですね。第4試合なので、いくらテレビ収録の大会でもテレ朝さんは収録してなかったんだろうな。
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タバスコも猪木さんが
— カズ。 (@lE2i9784aTAbQ5C) June 1, 2020
日本に輸入したんだよねー pic.twitter.com/PuxnU4EYCu
猪木失神KO。死ぬな、猪木!!
ナイスコンビ!
— もふもふちゅーぶ (@animartube) June 1, 2020
pic.twitter.com/ayWRuKwjFs