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「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝(2023/09/27更新)

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■「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 表紙

 久しぶりに猪木に関する古い本を取り出して読んでみました。

 「新・燃えよ闘魂 - アントニオ猪木自伝」

 1981年に発行された「猪木自伝」なので、IWGP事件もクーデターも、政界進出もイラク・北朝鮮も、まだまだ先の話です。それだけに、猪木の少年時代やブラジル時代、プロレス入り、アメリカ武者修行などの猪木の人生の前半の出来事についての記述が豊富で読み応えがあります。

 そして読んでいる自分もプロレスラーに数多くの夢と幻想を与えてもらった少年時代に引き戻されます。

 今回読み返すのにあたり、特に興味を持って読んだのは、猪木のアメリカ武者修業時代の出来事です。

 20歳そこそこの若者がたった一人で渡米し、アメリカ国内のプロレス興行に参加して金を稼ぎながら、長期間生活していくことは、それ自体が並大抵の事ではないことだろうと想像できます。精神的にも肉体的にも、まさに過酷な「修行」です。それができるだけでプロレスラーと言う存在を尊敬してしまいます。

 さて、この「自伝」に書かれている猪木のアメリカ武者修行時代の出来事は、現在、様々な情報をもとに検証されている「猪木のアメリカ修業時代」とは、違う記述も多々あるようです。

 この本の記録は猪木の回想による証言をベースとして、ライターさんがまとめ上げたものなのでしょう。また、当時日本に伝えられたアメリカのプロレス情報も参考にされていると思われます。現地のプロモータが次の試合を盛り上げるために流布した創作の煽り情報もあるでしょう。あるいは、猪木の記憶違いによる証言もあると思われます。はたまた、東京スポーツの桜井さんあたりが、読み物として書いた記事が、そのまま正式記録として残ってしまった可能性も十分にあります。

 だからと言って、この本の記録に意味が無い訳ではありません。「新・燃えよ闘魂 - アントニオ猪木自伝」が執筆された1981年当時の時代背景、当時の情報量、当時のファンがプロレスを見る姿勢などを考えれば、ライターの事実誤認、猪木自身の記憶違い、あるいは両者のエンターティンメントとしての意識的な創作も含め、非常に貴重な記録と証言が満載の「猪木自伝」です。

 そのことを前提に、現在発行されているアントニオ猪木の戦績集各種に記載されている内容と、この本に書かれている「猪木のアメリカ武者修行時代」の記録とを見比べてみました。

 アメリカ遠征初戦(ハワイ)
19640311
東京スポーツより

 1964年3月、猪木は豊登と共にハワイに渡り、その後2年間となる「アメリカ武者修行」をスタートさせています。ハワイでは、初戦でカーチス・イヤウケアと闘うメインエベントに抜擢されるなど破格の扱いを受けています。その試合あと、後のPWF会長、ロード・ブレアースとのタッグで2試合をこなしたあと、豊登と別れて、単身ロサンゼルス入りしました。ここからが猪木の本当のアメリカ武者修行ひとり旅のスタートです。猪木が到着したロサンゼルスのクラーク・ホテルでは、アメリカ遠征を終えるジャイアント馬場と再会して、エールを送られた出来事も昭和プロレスファンには感慨深い展開です。

 ロサンゼルス クラーク・ホテル前で
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

※この写真について、流智美氏の「猪木戦記 第0巻 立志編」には「1966年3月9日にロスのクラーク・ホテルの前で撮られた写真」と書かれている。

(1)アメリカ本土での第一戦

 さて、この自伝ではアメリカ本土に渡った猪木は「ロスからバスでテキサス州ヒューストンへ向かった」と書いています。

 アメリカ本土での第一戦は、ヒューストン・コロシアムでのデビッド・ロドリゲス戦。猪木は「あっという間にフォール負けをした」と述懐しています。その後ヒューストンをベースにテキサス州各地で戦ったことになっています。

 アメリカ本土での第一戦
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

 一方で、後に猪木のアメリカでの戦績をまとめた各書籍では、猪木のアメリカ本土での試合は、ミズーリ州でスタートしています。ハワイからの転戦の日付の整合性から考えても、記録に残っているミズーリ州の試合日時は妥当な日程です。そして猪木は約二ヶ月間、カンザスシティ周辺の各都市を転戦しています。さらにこのミズーリ州での第一戦では見事勝利を飾り、その後もほとんどの試合が「勝ち」または「引き分け」という、前座とは言え、破格の待遇で迎え入れられています。「あっという間にフォール負け・・・」という訳ではなかったようです。「あっという間に負けてしまった」というのは、猪木氏自身のアメリカ修行の記憶の中で「最初はつらかった」という印象がこの記述につながっているのかもしれません。

(※ちなみに、カンザスシティは、ミズーリ州とカンザス州、両州にまたがる都市らしいです)

(2)テキサスヘビー級タイトルへの挑戦

 猪木がテキサス転戦中、「テキサスヘビー級チャンピオンジョー・ブランチャードに挑戦した」と書かれています。
(ジョー・ブランチャードとは、タリー・ブランチャードの父で、サンアントニオでレスラー兼プロモーター・・・・ウィキペディアより)

 しかし、猪木のアメリカ修業時代の戦績集の中に、ジョー・ブランチャードとの試合記録が見当りません。アントニオ猪木のテキサスヘビー級チャンピオンへの挑戦としては、1965年7月24日、ヒューストン・コロシアムでのマーク・ルーインとの試合記録が残っています。テキサスヘビー級ベルトへの挑戦は、その一試合のみのようです。だだし試合記録が見つからないとは言え、猪木のアメリカでの戦績の各種記録集のデータが必ずしも正しいとは言い切れませんので、ジョー・ブランチャードのベルトに挑戦していないとは断定はできません。なお猪木のテキサスでの闘いは、1965年6月~10月、約4ヶ月間です。アメリカ武者修行開始から1年と3ヶ月後にあたります。もしかしたら、この時のロサンゼルスからヒューストンへの移動が長距離バスだったのかもしれません。

 ダニー・ホッジ/ジョー・ブランチャード
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝

 ジョー・ブランチャードとの対戦
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

(3)ダニー・ホッジとの対戦

 オクラホマではダニー・ホッジNWA世界ジュニアヘビー級選手権に挑戦して引き分けたと書かれています。しかし戦績本ではその記録も見当たりません。アメリカでダニー・ホッジと対戦した記録自体が残っていないようです。アントニオ猪木戦績集によれば、猪木がダニー・ホッジと対戦したのは、東京プロレス時代以降です。

 ダニー・ホッジとの対戦
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

(4)リングネームの変遷
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

 猪木のリングネームは、ハワイでは「カンジ・イノキ」。アメリカ本土入りして最初のミズーリ州で「トーキョー・トム」、次のカリフォルニア州で「リトル・トーキョー」、そして3カ所目のオレゴン州では「ミスター・カジモト」のリングネームで闘っています。その後は、再度カリフォルニア州に転戦して、再び「リトル・トーキョー」を名乗っています。

 「カンジ・イノキ」のリングネームに戻るのは、翌1965年6月、アメリカ武者修行5カ所めとなったテキサス州遠征からです。この本にはアメリカ修業時代の早い段階で「アントニオ・イノキの名をひっさげてオレゴンのマットに上がった」を書かれていますが、戦績の記録としては「アントニオ・イノキ」の名前としては残されていません。「名前なんかどうでもいいや」という猪木の性格なので、記憶も曖昧なのでしょう。ただし、「トーキョー・トム」という名前はお気に召さなかったようです。

 リングネーム、アントニオ・イノキ
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

「カンジ・イノキ」

 →「トーキョー・トム」

  →「リトル・トーキョー」

   →「ミスター・カジモト」

    →「リトル・トーキョー」

     →「カンジ・イノキ」

(5)太平洋戦争の宿敵、ペッパー・マーチン

 猪木がペッパー・マーチン北西部ヘビー級ベルトに挑戦したのは、1964年11月、遠征7カ所めのオレゴン州遠征時代、この本では、兄の仇だと思うとカーッとなって、「私は反則負けになった」と書かれていますが、戦績集の記録によれば、三本勝負で1対1のあと、猪木(カジモト)がリングアウト負けとされています。そもそもプロレスラーが自分のひとつ一つの試合結果を事細かく記憶しているとは思えませんが。

 ペッパー・マーチンとの対戦
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

(6)世界タッグ選手権奪取

 前述の通りテキサス遠征は、1965年6月~10月と、そのあとは帰国直前の1966年2月。確かにこの頃は、猪木がメインエベント、セミファイナルに出場している記録が数多くあります。このテキサス時代にフォートワース・スポーツアリーナで、デューク・ケオムカと組んでフリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックスの世界タッグ選手権に挑戦して奪取した記録も残っています。(1965年10月10日)、しかし、後の検証によれば、反則がらみでの勝利でタイトルの移動なし、さらには「実際には行われてはいない」という説もあります。

 それでも、1966年2月8日のダラスの試合の宣伝告知には、イノキ&ケオムカ組が世界タッグ王者であり、デストロイヤー組が「タイトルを奪ってみせる」と予告するデストロイヤーの言葉も掲載されていることから、どこかの時点で猪木組が世界タッグ選手権(テキサス版)を戴冠したことにはなっているようです。

 世界タッグ選手権奪取
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

 一方、ヒロ・マツダと組んで、NWA世界タッグ選手権(テネシー版)を奪取をした写真は残っています。多くの資料では、このベルト奪取が「猪木のタイトル初戴冠」とされています。

 ヒロ・マツダとNWA世界タッグ王者に
「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝
 「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝より

(まとめ)

 プロレスの記録は、書かれた年代や書いた人、語った人によって内容が異なることはよくあります。フィクションとノンフィクションを行き来し、それらを見比べて「どれが本当なのかな?」と考えるのも楽しみ方の一つです。この「新・燃えよ闘魂」アントニオ猪木自伝も、現在検証されている猪木のアメリカ遠征の足取りとは相違する部分が多々あるとしても、何十年ぶりかに読み返してみると、この「自伝」書かれている「猪木氏のプロレスに向き合う考え方、人生に向き合う考え方」が、生涯を通して一貫していたことを知ることができる本なのでした。

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