■プロレスリング・イラストレイテッド 4月号
アメリカ「Pro-Wrestling ILLUSTRATED」 誌では、昨年のアントニオ猪木の訃報を受けて、すでに2回の追悼記事が掲載されています。
そして、またまた、最新号2023年4月号にも追悼記事が掲載されました。この号の特集は、2022年のプロレス界総括でしたので当然重複はしますが、ここにも登場する猪木氏は、やっぱり世界的な人物だったと言えるでしょう。そういえばかつてNWAの豪華外国人選手が登場する全日本プロレス中継では、ジャイアント馬場を「世界のジャイアント馬場!」とアナウンサーが連呼するのを悔しい思いで聞いていましたが、最後には猪木も間違いなく「世界のアントニオ猪木」でした。
さて、今回の記事の内容をつたない英語力で訳してみました。
■掲載ページ
アノトニオ猪木とは、いったい何者だったのか。
画期的なアスリートだったのか、あるいは革新的なプロモーター?、ビジネスマン?、政治家?、芸能人?
猪木は一つの目的を達成するためには、決して失敗を恐れない男として多くの人の心に残っている。
プロレスのリングでの数多く闘いでダメージを受けたアントニオ猪木の腰には金属のボルトが埋め込まれており、晩年は車いす生活を強いられていた。猪木は2022年10月1日、心アミロイドーシス (心臓内およびその周囲にタンパク質が沈着する病気)から回復できず、79歳で亡くなり、この日、アントニオ猪木は伝説となった。
■2022年に他界したプロレスの重要人物
猪木は1943年2月20日に横浜で生まれた。中学時代の陸上競技選手として頭角を現したことはよく知られているが、それまでには空手やバスケットボールにも親しむスポーツ好きな少年だった。1957年に一家でブラジルに移住してからは、現地でも砲丸投げ、円盤投げ、やり投げに打ち込み、ブラジルの地方選手権で優勝するほどの実力を身につけた。
そして日本のプロレスの父・力道山に見いだされて帰国することになり、そこからプロレスの道を歩み始めた。身長191cmの猪木の同期入門には、身長2m9cm・体重135Kgのジャイアント馬場がいた。共にプロレスの修行に打ち込むことになった二人は、入門当時から将来の日本のプロレスを支えるレスラーとなることを期待されていた。
1963年に師匠・力道山が亡くなった後、猪木と馬場の二人は力道山の設立した日本レスリング協会を去り、それぞれの理想とするプロレスを目指した。猪木は1972年1月に新日本プロレスを設立、馬場は同年10月に全日本プロレスを設立したのだ。その後、この二つのプロモーションの競争が、四半世紀にわたって日本のプロレスを繁栄に導くことになった。
アントニオ猪木のプロレスは、世界的にも比類の無いほどの魅力をもっていた。
1971年にジョン・トロスを破ってユナイテッド・ナショナル選手権(後に全日本三冠王座に統一された)を獲得。
1979年には徳島でボブ・バックランドに勝利し、1週間の短期間だったがWWF世界選手権を保持した(米国ではWWFの公式記録としては認められていない)。
1986年には名古屋でアンドレ・ザ・ジャイアントからギブアップ勝ち。 1987年のIWGPトーナメント決勝では斉藤マサを撃破し、新日本プロレスの看板タイトルであるIWGPヘビー級選手権初代王者となっている。
■弟子たちとの闘い
同時に新日本プロレス道場において、前田日明や馳浩、武藤敬司、ロッキー・ロメロなど、数え切れないほどの弟子たちが猪木の影響を受けて成長していったことも忘れてはならない猪木の功績である。
1976年には猪木はプロレスラー対ボクサーの異種格闘技戦、モハメド・アリとの一戦を実現。試合はクローズドサーキットにより全世界で放映された。結果は15ラウンド闘っての引き分けとなり、当時は猪木の壮大な失敗の一つと見なされたが、時を経てこの試合は現在のMMA の礎として大きく評価されている。アリ戦に続く猪木の一連の格闘技戦は、猪木の“ストロングスタイル”プロレスをファンに浸透させていった。
1995年には、北朝鮮で「平壌国際体育文化祭」を開催し、19万人の観衆を前にリック・フレアーと闘い勝利した。さらに2003年には藤波辰爾の引退試合として、エキジビションマッチも披露している。その後猪木は2005年に新日本プロレスの株式を手放し、自ら設立したプロレス団体の経営から身を引いた。2018年にはPWIのスタンレー・ウェストン賞も受賞している。
また、政治家としての猪木氏は、1989年から1995年の6年間と、2013年から2019年までの6年間、通算二期の参議院議員を務めている。
2022年には、他にもプロレスに貢献した人たちの訃報があった。3月13日に亡くなったスコット・ホール(享年63歳)は、レッスル・マニア10でのショーン・マイケルズとのラダーマッチが評判を呼び、またWCWでNWO立ち上げたことでもよく知られている。8月9日には柔道家でもあったジン・ラーベルが亡くなった。猪木と同様、カール・ゴッチのもとでトレーニングを行い、現在の総合格闘技にも多大な影響を与えたレスラーである。
そして10月、アントニオ猪木も2022年に他界したプロレスの重要人物の一人に名を連ねることになった。
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藤波の引退エキジビションマッチ、そのエピソードを取り上げるのか?、弟子の代表にのロッキー・ロメロ?、間違いではないものの、少々的外れに思える部分もありますが、海外の記事なのでヨシとしましょう。「馬場と猪木で日本のプロレスを隆盛に導いた」、「猪木-アリ戦はMMAの礎」などは、確かにその通りです。こうやって海外誌でも繰り返し取り上げられるのは、猪木ファンとしては嬉しい限りです。
■次の猪木は、オカダカズチカ?
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レオン・ホワイトデー pic.twitter.com/IULJ8GCqns
— コブラ@絶賛発売中!「昭和プロレステーマ曲大事典」 (@kokontezangetsu) March 13, 2023
この写真を見て思うことは大人には決してなるなだ。人の人生には大人以前と大人以後がある。バカヤロー! pic.twitter.com/IuhKda2gBW
— ターザン山本! (@tarzany) March 14, 2023